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今だけしか生きてくれない、音楽。

初めて好きになったバンドがとっくの昔に解散していた時のショックがきみにわかるか。私がブランキーに脳みそ撃ち抜かれて、あ、頭って穴があいているとすっきりする!目が覚めた!って思った時、すでにブランキーは解散していたさ。行けるわけもない野外フェス、行けるわけもないライブの、大人たちが数年前にネットにアップしたレポを中学生があさって読んで、その時音楽っていうのは終わっているものなんだと知った。死んでしまっているものなんだと。まあそうだよね、バッハとかみんな死んでるもんね。で、だから今生きているミュージシャンを追いかけることは最重要である。私はそのあともちろんブランキーのメンバーそれぞれがやっているバンドも、全部聞いたしライブも行っていたし、野外フェスだって散々行ったけど、でもそれでもやっぱり手に入れられないものはあるし、それがどうしてもほしかった。解散を知った時の喪失感。その一瞬が欲しかった。あれは地獄ではないと思う。あんなに、悲しくて、それでいて悔いることもできない別れもないと思う。やっぱり私が見ていたものは生きる何かだったのだと、わかってしまうと同時、それが死んでしまうのだ終わってしまうのだとも思い知る、そういう高熱。バンドでもなんでも、人が複数集って作るものには、生物がもつ熱とはまたちがう熱が宿ると思う。死んでしまったら人間はおしまいだけれど、人の集いは、また復活するという予感があって、でも、それは人が生き返ることと同じぐらい、ありえないことなのだ。人間が同じ箇所に集って、同じことをするっていうのは、実はとんでもなく奇跡なんだよ。学校とか会社とかそういう組織に所属しているとわからなくなるけれど、猫みたいに縄張りがあるわけじゃないんだから、みんなどっかに行くし、会うことすらほとんどないのかもしれない。だから、そんな奇跡を奇跡だと一番思い知らせてくれるのが解散であって、そして奇跡だから、復活は想像以上にありえないこと。まだ、死んでいる人の方がとにかく望み0にしてくれるんだから優しいのかもしれないよね。バッハもモーツアルトも優しい。
    
で、こういうことを書いている時私はばりばりでブランキー聞いていて、ああああやっぱりかっこいいってのたうちまわるかわりにこういう文章を書くわけです。あれだけ私の中学時代高校時代を燃やしてくれた音楽だっていうのに、あのころよりはたくさんの音楽を好きになったというのに、私は全然今もブランキーを嫌いになってなくて、黒歴史にしていなくて、我ながらすごいと思う。いやブランキーがすごいだけなんだけれど。そしてこういうのはもしかしたら最初から解散してしまっていたからなのかな、とも思う。音楽プロデューサーの加茂さんがバンドの解散はそのファンの青春の終わりってツイッターに書いていて、だとしたら私は最初から青春が終わっていた。黒歴史になる部分がなかったのかもしれない。でもそれはそれでなにか、悔しいものがあるなあ。人はもしかしたら本当に心底、(将来恥ずかしくなるぐらいに)好きになるには、現在進行形で変化するものが対象じゃなきゃいけないってことじゃないかとか、思ってしまうよなあ。そりゃまあ、変化をするっていうのは愛を試されるっていうことであり、そしてそれでもついていくということで、愛を盛り上げていくというのはあるだろうと思う。わたしはそういうの、「はあ?」って思ってしまうけれど、でもやっぱりそういうのが愛を盛り上げるとは思うの。子供だって可愛いのは2歳までとかいうけど、でも、ずっと2歳よりは、どんどん成長する方がかわいくというか、いとしくというか、見えるんじゃないのかなあ(なんて適当な発言)。観葉植物も、全く変化ないよりは花咲いたりする方が売れるでしょ(驚くほどの適当さ)。変わっていくということは、生きるということその象徴であり、そしてそれこそがいちばん、「存在」であるとかいう結論に持って行きたいんですけど、いまのところたとえが机上の空論なので無理ありますかね。っていうか私はブランキーがやばいぐらい好きだったというその事実を否定するつもりはないんですけどね。でもそのあとも私は三人の音楽を聴き続けているから、きっとそのあたりの変化こそ愛を育てるとかいうきもい理論が正しいとしても大丈夫。OKです。
   
とにかく十代とかはライブとかなかなか行けない人も多いだろうけど(私もそうだった)、でも、音楽はやっぱり、行ける限り行った方がいいですよ。同時代に生きているっていうだけで奇跡なのに、もしバンドさえもそのときまだ生きているなら、そんな奇跡、自分から手放す理由なんてどこにもないですよ。