アクロバティック思考回路

まじめなことばかり書くと(他者からはそう見えないかもしれないという説はいまのところ無視)、ブログを書くのもしんどくなってくるので今日はゆるくいきたい。私は基本的に考えるという行為が嫌いで、それは十代のときに一生懸命考えていたのが、どれもこれもつきつめれば「言い訳するため」と「自分を正当化するため」でしかなかったから。特にひとりぼっちで頭の中で考えることなんて、どうせ自己肯定なんでしょ?と思ってしまってそれからもう考えるのが億劫になった。理論的に、理性的に、積み重ねていくように、他人への悪口を構成したって自己満足よな。そういうふうに思ってからは、もう頭を使うということは日常生活で使うべきではないと思った。頭なんて勉学で使うのが一番健全であろうと思う。そういうわけで一人でいるときなんてほぼ何も考えていないし、今でも新しい楽しいことをおもいつこうと、アイデア練ることは好きだけど、これはつまりは要するにああいうことではないかとかそういう分析的なことは考えてこなかった。でも書くという作業は思考と発展と奇跡のバーンによって構成されるから、とくにこういうブログだとかいう場所では思考が多くなってしまうよね。読み直すとこんな人間だっけ、私、と思うのだけれどでも表出したのはこうだよね。ネタがそれぐらいしかないといえばそうなんだけど、要するに人間って考えたがりなんだよな。結局。時間と暇があるとまずは自己を肯定するために、次に他人を否定するために、そして世界を否定するために、頭をめぐらし始めるような気がする。それなら学術研究でもやれば?と思うけどそういうのには持続性が必要だから結局、身の回りのことを都合よく分析するにいたる、のかもね。わたしがいろんなことを考えまくっていたのは結局暇すぎた中学生のときがマックスだった。すべては正しい値(本人なりに)をだして、そしてそれですべてを屈服させられると思っていた。しかし人間とはマイナスであろうが間違っていようがそれがその人にとってベストである、ということはあるのだ。そういうのをなんで?!って言ってもしかたがない。
    
物語とか書いていると、この人物はこういう経緯があって、そしてこういう感情の変化があって、こういう行動に出ましたよね、って編集さんと話すこともあり、もちろんそれは当たり前の構築の仕方なんだけれど、しかし人間は実際のところ、出来事の蓄積で次の行動を選択するのか微妙だったりする。ここまでこうなったらこうするでしょ、普通?!と思っても、結局その人はその人の性格、好みだけで選択したりするんだよな。おなかいっぱいで、しかも誰かに太ったって言われた直後だったりするときでも、チキンが好きな奴はファミチキを買う。そして食べて後悔する。そういうのってすごくおもしろいけれど、「なんで買ったん?あほなん?」って言っても、しかたがない。「なんで」に答えはない。しかしあると思っているのが、中学生ぐらいで、だから、理屈で攻めこめば、勝てると思ってしまう。しかしそもそも「なんで」のない行為に正論なんて通じないんだよな。そして結構そういうのは多い。とにかくそいつはそういうやつで、だからもうどうしようもないのだ。きみは永遠に本能に勝てない。起承転結など本能の前ではバーン! ちなみに「思考と発展と奇跡のバーン」という構成のうち、詩を書くときは「奇跡のバーン」をとにかく増やすというのが私の好みです。(正しいとは言ってない)
   
結局なんか考えている記事になってしまった、要するにネタがないのに書こうとするからこうなるんだな。