きみもあの子もコンテンツ

メタファーは現実をはぐらかすためではなく、現実を突破するためだけにあると、どこか信じている。星座が星空の意味と価値を拡張したように……というのはちょっと違うかもしれないけれど、でもとにかくごまかすのではなく、拡張する言葉。話は変わるけれど星座などを考えるとやはり、言葉は過去に絵だったんだなあ、と実感してしまう。星を目印にしてだれかと共有するためにも、星に名前をつけるのではなく、絵をつけた。言葉がここまで染み付いてしまったのはやっぱり言葉の強度があがってしまったからかな。インターネットだとかで。
   
私はものを書く仕事をしていて、言ってしまえばリリカルが生業なんですが、リリカルは読み手の日常に寄り添うものなのかなとおもっているので、できるかぎり透明でありたいと思っています。最果タヒの言葉、と思われると入ってこないというか、読み手が「これは私のための言葉」だと、解釈のただしさだとかそういうことはどうでもよくなるぐらい、ギュッと自分のものにするためには、作品は作品だけで存在したほうがいいのかなと思っていて。作品を作者の人物像を知るための媒介だと思われることはちょっと私の作品には不向きだなと思っているんです。だから、書いたものがすべてであってほしいし、人前に出たりとかそういう、作者像を強調する行為はしないようにしています。でもだったらどうしてこういうところでだらだら書いているのか、というのもときどきインタービューで聞かれて、でも、WEBの日記って結局は日記ではなく、ただの表現媒体の一種でしかないと思っているので、ここがプライベートだとか、人物像を形成する場所だとは一切思っていない。誰かが見ることを前提にそれを目的として書くという時点で、ここは原稿と大して変わらないし、当然、公私は混同のしようがない。インターネットでたくさん書いたらなぜ、私的な発言をしているように見えるのかも疑問。そもそもインターネットに「私的」はない、プライベートなんてないと思う。常に公にされるものだし、街ですれちがいざまに聞いた誰かの声とは違って、誰が言ったのか、そのひとがそれまでどういうことを言ったのか、有名無名に限らずたどることができてしまう。自分のハンドルネームやアカウントに紐付いた表現の集合体ができあがっていて、それを他者は見ることができる。昔ブログかどこかで、インターネットはキャラクターというものすらコンテンツ化するとか書いたことがあって(たぶん)、私は私個人ではなく、「最果タヒ」というコンテンツを作っているという意識でしかないし、そこに人間性を見出すのは無茶な話だ。みんなネットでコンテンツとしての「自分」を作っていくために発信しているという意識が少しはあって、だからこそ自分の中でネットで書く話題と書かない話題を区別したりするんじゃないのかとか思ったりするけどどうなんだろう。とりあえず私は自分という存在を知って欲しいというよりは、コンテンツを作っている感じでいます。そういうあり方のほうがむしろ、落ち着いてしまう。どこまでもどこまでも私という存在は言葉の集合体でしかないなんて、最高だとか思ってしまう。ステージ上の俳優は決して素ではないように、インターネットでの発信にはかならず観客がいるから、ネットに生身の人間はいないと思う。みんながそれぞれ作っているコンテンツとしてのキャラクターがいりまじって、だからこそその人の言葉や絵や音楽に、透明性がでるというか、全く知らない他人のどうでもいい日常の話だとかを、ちゃんと聞いて、おもしろがれるのも、どこかそういう透明性が関わっているんじゃないかな、とちょっと思う。だって、知らない人に急に喫茶店で相席されて、過去のつらかった話をされても困惑でまともに聞けないし。(匿名性の暴力については、名前をタグ付けしないという点で別の話になるのでここでは置いておきます。ネットには人間はおらず、コンテンツしかいないという点でネットで孤独が本質的に埋まることは決してないのではないかとも思ったりもしたけど深く考えてはいないしたぶん世迷言です)
    
テレビのことをいまさら害悪扱いするのが古臭いように、インターネットのことを書くのもそろそろ潮時だろうなという気配、5年ほど前からずっとあるの。