宇宙が無限でも、いいの。無数の私がいるから。

誰かになりたいと思うことが、自分を肯定する第一歩だという話や、すべては模倣から始まるという話や、逆に、他人を崇拝した時点で自殺したようなもの、という話やらなんやらかんやらあって、とにかく夢だとか憧れだとかは幸せにするわけでも不幸にするわけでもなく、そんなことよりなにを選んだか、何を見てしまったかによってしまうのかとも思ったりなんちゃらかんちゃら。魚が「私、鳥みたいに高く飛びたい!』といったって、とびうおですら限界があるけれど、「モリのように素早く泳ぎたい」だったならきっといい未来があったわけで、だとしたら夢を賛美することやら憧れを賛美することは的外れなんですかね。でもモリでも鳥でもなくお前は魚だろうという話も一方であって、なんなのだろう。モリにあこがれる魚は滑稽だけれどしかしそれで当人は楽しいだろう。
    
詩の連載が2月の下旬に二つ始まって、実はどっちも2月23日発売号からです。1つはSPUR。SPURはずっと好きだったファッション誌で、だからお話いただいた時嘘みたいだとおもったんですが本当みたいです。コラム欄に、短い詩とコラムを書いていきます。タイトルは「きみは詩以上夜未満」。anccoさんの素敵なイラストと一緒に掲載されるの。うれしすぎる。生きていくなかでどれほどファッションが大事なのか、美しいことが大事なのかという話があり、いや待て、ファッションと美しさは同義ではないな。とにかくクローゼットやメイク用品が与えてくれるものというのは、外側をつくりだしていくものであるはずなのに、随分と本質的な気配がする。化粧という行為なんて、私はたぶん男の人に生まれていたらしていなかったと思うんですが(性別の問題ではなく性格の問題)、だからこそ女の人に生まれ、他人にあたりまえのように化粧品を与えられ、プレゼントがネイルだの香水だのだったりすることで、化粧というものを自然と考えることもなく日常に取り入れることとなったそのことを、嬉しく思います。洋服を買うとき、「ものとして好きな服」と「着たときに自分を少し好きになれる服」と「着たら強くなれる気がする服」と「着たくはないけど着たときの自分を想像したら少し幸せになれる服」というものがあって、そういういろいろな「素敵な服」を選んでいくことは確実に未来以上の何かをを作る。ファッション誌で美しいモデルさんが、美しく、丁寧に仕立てられた洋服を着る、その写真を眺めているとき、確かにそれがほしいとかほしくないとか、そういうことも考えるんだけれどそれ以上に、身体や服への信頼、可能性を拡張してもらえる気がしている。同じ服をただ買うかどうか悩むだけでなく、全く違う形の洋服を選んでいるときだって、そうしたページで受け取った「素敵」という感情は、私の中にきちんと渦巻いていて。他人がどうこう思うよりも、私がこの服を好きだというその感情がその渦によって増幅される。これはただの未来のための選択なのか? あこがれだとかでしかないのか? 選びたいものがたくさんあって選んでもいいのだという、その可能性の幅広さ、圧倒的な「自分の好み」を加味できるということが、もっと本質的な自己肯定につながっている気がしていた。様々な洋服があり、さまざまな色があり、化粧品があり、髪型があるということは、まるで世界はすべてわたしのもの、というか、世界が広いのと同じぐらい、私は無数にあるのだという、そういう肯定です。たくさんの登場人物があり、人生があり、それを着せ替えるように本を読むとき、どんなあこがれよりも、自分自身が増えていくというそうした強さに心が包まれるような、そんな時に似ている。服を選ぶことと本を読むことは同じように実は自分がもつ湖の底につながっているように思います。
   
そしてもう1つはQuick Japanです。2月23日発売号から。Quick Japanは写真家の小浪次郎さんと渋谷をテーマに連作を作ります。分よりも秒よりも儚い「一瞬」しか渋谷にはない。だから、その一瞬一瞬を詩と写真で切り抜いて、そうして永遠にしていきます。連載タイトルは「永永永永永永永遠遠遠遠遠遠遠」。QJで詩が連載できるとか!わーい!わわーい!いや、わーいって言ってる場合じゃないんですが、ヒリヒリギリギリする場所で、ちゃんと、届いていく詩を、自分も世界も言葉もゆめもきぼうもカルチャーも、すべて突破させて書いていきたい。街というのはそもそもが、人がふりつもってできた雪景色のようなものだと思っていて、古い人も新しい人も、おなじように町の形を作っていき、そして残っていく。景色が変わろうとも、その人たちがいなければその先もなかったわけで、だからこそ変容は歴史となっていくのだと思う。街はタイムラインであり、その遅さ速さは場所によって違うものの、そのときそのしゅんかんを切り抜いても、「すべて」とは言えない。流れて行く河をスプーンでひとすくいしたって、その河のことはしれないように、つづけていくこと、見つめ続けることはとても大切で、そう知っているからこそ、故郷が変わらなかった時は安心するのかもしれない。目を離していたそのことへの、罪悪感が、少しだけ薄れる気がして。渋谷は、とにかく速くながれていく河です。まばたきのしゅんかんに取り壊され消えるビルがあるかもしれず、もう一生東京の土地を踏むつもりのない人がすっと現れるのかもしれない。刹那とも言い換えられる、しかしそんな言葉は不似合いなほど日常的で、それでいて一瞬でしかない、そんな時間、人が積み重ねられて、渋谷を作っている。だから、この連作で、切り抜いていきます。重ねていきます。一つの街というもの、そのタイムラインを、形として表していくための連載です。永遠にしていく作業を始めるつもりでいます。
   
連載は作品に時間軸が与えられて、それでいてネットよりも、残りやすくもあって、追いかけるのもたのしいとおもいます。よかったらみなさん、見ていてください。