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ノスタルジック満腹

「おなかいっぱい」がいつのまにか、ちょっと不愉快というか、疲労を生むようになっている。あたたかい日なたで甘いものを頬張って、おなかいっぱいになったらすやすや昼寝をするような、そんな幸福がたしかに過去、あったはずで、だからこそ今だっておなかいっぱいをめざして食事をしてきたかもしれないのに、ふと気づくとおなかいっぱいが幸せではなくなっていた。好きなだけ眠ったら、寝過ぎで頭が痛くなった。あたたかいところにいたら暖かすぎて皮膚がひりひりしはじめたり、走り去るランドセル、カレーの匂いが、さみしさを産み落としていくような、そんなノスタルジーがいつのまにかできあがっている。過去の自分をすすんで羨むことは、過去を肯定する形で、現実を否定するならそこまで、傷つかないからだろうか。単純だった幸福は次第に、体に合わなくなって、そしたらどんなものが合うのか。幸せの裏側にあるのはいつだって不幸で、そんなことは昔から変わらない。ちいさなころはそれが、やらなきゃいけない宿題だったり、いたずらに対するお説教だったりして、聞き流せられたし、一時的なものでしかなかった。ただ、今はもっとすべてを台無しにするもの、人生そのものに傷をつけるものになってしまって、こわくて無視もできなくて、幸福を探す暇がない、のかもね。別に昔より不幸になったわけでもないのに、今がとても苦しく思う。
   
そういうのを大人になったのだからと、目を細めて受け入れるようなそんなつまらない人間になるのが癪だ。おなかいっぱいがしんどいなら、お酒の美味しさや空腹にひとかけらチョコレートを頬張る快楽を覚えればいいという、それだけだった。変わっていくことにセンチメンタルを感じるとき、過去を懐かしく思い出す時の、あのどこか惨めな気持ち、私にはまだあるから大丈夫だと思う。ノスタルジー、好きだけれど、でもそこになにか気持ち悪いものが浅瀬のナマコみたいに横たわっている。小学校の校舎は木の柱があったかくて、それがなんだというのだ。いつだって今より優先すべき過去などない。生きているからって、人間だからって、人生をまるごと肯定するのは、人生の最後だけでいいと思う。私は新型の家電が、やっぱり最高だと思っている。