少女漫画はいつだって刃

天才的な作品に触れたとき、もはや畏怖として感情が溢れ出るときがある。「こわいほどの天才」どころではなくて、「この人はもう、天才じゃないと逆に怖い!」って思うパターン。とにかく少女漫画の天才というのはこういうのがほとんどだった。それほどに、少女漫画の傑作には冷たくて冷たくて見つめ返すことすらできそうにないほどの観察眼が必ず備わっている。人の弱さやどうしようもなさを、つうーと指先で切り裂いて、ひとつずつとりだして、トリュフの入っていた化粧箱に入れていくような、そうした淡々とした作業を見せながらも、はい、とさしだされた完成品は、宝石箱のようにきらきらとしていて、「あっ」と言ってしまう。だってこれ、あんなにどうしようもないものだったでしょ、どれもこれも、なんて言ってみても、「だってこうなったから」と差し出されている、そんな冷淡さ。やわらかい肯定なんていう、微風で破れてしまいそうなものではなくて、硬質な、刃みたいな肯定。どんな熱も溶かすことはできない絶対零度が必ずあると思っている。だからこそ少女漫画は、少女たちを、肯定し続けていけるのだろうな。女の子が幸せになる方法を教えるのが少女漫画だと、なにかで読んだことがあって(ぐぐってもでてこない)、それはその場しのぎではない、本質的な肯定を与えるということだろう。お前たちは醜いと、教えた上で、それでも見える美しいものを伝える。わかるよ、しかたがないよね、なんて微塵も見せない、それ以上の、本人すら気づいていない部分まで引きずり出して暴いた挙句、その先の答えを出すんだろう。とにかく、昨日、吉野朔実さんの漫画「ジュリエットの卵」を再読していて、ああ、ここまで淡々と、冷え冷えとしているのは、天才だからなんだな、そう納得しないと、怖くて仕方がない、そう、最後の最後に思った。冬の空が一番、星が綺麗に見える。エンディングはそのとおり、美しかったです。
   
感情では人を肯定しきれないのでは、とは思う。共感や同情といったものでは絶対に見逃してしまう、本当に「隠しておきたいもの」まで見すかす、甘さのなさが、最終的に「肯定」を絶対的なものに変える。エモという言葉が流行ってはいたけれど、感情より先に現実を思い知らすことが、読み手に最も感情的に働くような気がした。傷跡を与える。
  
ジュリエットの卵 (1) (小学館文庫)