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リアリティ輪廻転生

「死んでしまう系のぼくらに」という詩集を出版した私ですが、しかし、いまだにこれをタイピングしていると「新弟子」が漢字変換最有力として出てくるの、なかなかの闇を感じます。死体やら死んでるやら、ブラックな言葉はすんなり変換できないことが多い気がして(私が悪い可能性もかなりある)、それはなんなのセーフティーネットなの、と思いながら、ストレスフルなのでやめてほしいです。こちらは仕事として書いているんだ、新弟子推しはやめろ!
   
死ぬだの死にたいだの死体だのの言葉やら残酷すぎな展開やらを書くと、非現実的、そこにリアリティがないとかいう話はときどき言われて、しかし、そのリアリティは、やはり友人や親が死んでしまうという経験を重ねた大人の「リアリティ」だよなあ、とは時々思う。しかたないことだし、私の作品は人を選ぶってことだよな、としか思わないんだけれど、でも、一方で、私も命の大事さはさんざん習ったし、よくわかっているつもりだけれど、しかし実際に、その人たちにとって「リアリティのない事件」がリアルで起きており、結局リアリティなんてものは、みんなと共有できるものではなく、それぞれにそれぞれのリアリティがあるんだろうなとも思うのだ。私だってそろそろ忘れていくだろうと思うけれど、しかし、十代の、どうせみんなも明日学校に来て、教室でくだらない時間過ごして、で、親もだいたい健全で、友達が急に死んだり、自分が死んだりもせず、一番身近な死が、ゲーム機のなかのキャラクターの死です、みたいな人間のリアリティだってある。そういう子がいう「死ね」だの「死にたい」だのそういうのを信じられないからないものとしてしまうのはちょっと違うというか、だって、そこにあるんだし。みんながバカだからとか、クズだからとか、そういうことでもないと思う。想像力や共感というのを駆使したってすべてのリアルを自分のリアルにできるわけもない。ある意味で命は大事だとか、ゲームは残酷だとか、そういうことをさんざん周りがいうから、「死」が非常に強くてキャッチーな表現として彼らのなかで育ってしまった、ともいえるかもしれないけど、これだってただの妄想で、彼らはただそこがリアルなんだというそれだけだろう。で、別に若者はそれを年上の人にわかってほしいとは思っていないわけだし、私もリアリティがないと言われてもそれはそれで私が私のリアルしか知らないせいだと思うし、きっとこのまま突き進んで、いつか命大事に系の人間に私たちもなり、死ねとか言っている若者にうんざりするリアリティを手に入れる。