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未来永劫かわいそうではない。

大人の人が時々言う「じゃあ馬鹿なふりして聞いてみますね」とかいうの、初めて聞いた時面食らった。なんてこと言うんだ!と思った。これまでみんな必死で何かを馬鹿にして、そしてそれをとりつくろうため、自分は馬鹿じゃないよということを証明するために、変なことまで言い訳がましく理詰めで語って、そういうこと繰り返して私たち、青春してきたのに、大人になった途端「馬鹿なふり」まで使うのか!とこわくなった。賢いアピールっていうのは、とにかく第三者を馬鹿にするためだけに行われるので、というかその正当性が得られると思ってやるものだと思っているのですが(酷い言い様だろう)、でもだからって馬鹿アピールというものまであるとは思わなかった。人間ってすごいな、なんでも実用化するんだな、とその時は思いました。この話は以上です。
    
プライドが高いです。高いことを悪いとも思っていないタイプのプライド高い人間さんですが、しかしプライドにも2種類あって、「軽蔑していいという保障だけのために高くなったプライド」と「自分を追い詰めるためだけに高くなったプライド」で、この二つのどっちなのかというのは、正直当人にはわかりません。別に片方だけってことでもないだろうし、そこは日によってバランスとか変わるかもしれないけれど、理想論はせめて後者でいたいですよね。自己嫌悪にさいなまれるけど、そこは自信の高さでカバー。前者は最低と思うかもしれないけれど、後者も、迷惑をかけるタイプだろうなとは思います。自分だけをおいつめるなんて、人間は出来ないんです。他人への注文もレベルが高くなるから、人に嫌われるのは実は後者だったりするんだよな。
人にかわいそうだと思ってもらうことが、実はかなり実用的なんだなと気付いたのは学生の頃で、そういうのが本当に嫌で、嫌で、かわいそうな人が助けられることは当然だし、そうであるべきだし私も助けたいけれど、でも私がかわいそうだとしても、それは他人に関係ない、と思っていたいから助けられるのはなんかちょっと違ったし、かわいそうの自信がなかった。私がかわいそうだと誰かに助けてもらった後も、その「かわいそう」に甘えないでいられるか、自信がなかった。他人には最強でいたい。守ってもらった瞬間に「かわいそうでよかった」なんておもうのでないかという不信感、そんなことが一瞬でもあったら、もうその瞬間からほかのかわいそうな人に向き合う勇気もなくしそう。同じになったつもりの、わかったつもりの共感なんかより、他人の「かわいそう」には全く理解できないままの、不安と勇気をもっていたい。良識がどうとかではなく、至極単純プライドの問題だよ。自分がかわいそうだったときと他人のかわいそうだった時を、並べていいとかいうそういうくだらない発想、1秒でもしたくないから、私は最強、未来永劫かわいそうではない。