すべてのヒトはちょっとフィクション

人生を狂わされているように見えるのか、それとも狂わせることすらその人自身の意思として見えるのか。スターみたいな人はたいてい、そのどちらかであるように思う。たとえばの話。編集さんとAKB48の話をかなり昔にした時に、前田のあっちゃんについて私は気づいたら「なんか"人生!"って感じしますよね」と言っていた。それまでそんなこと、考えてもみなかったけれど、それでも、口から飛び出していた「人生!」。あっちゃんには典型的すぎるほどに「人生」を感じる。スターであることも、ここまできたことも、この人の人生が狂わされていくその様を見せてもらっている、その一幕のような気がしてしまう。実際がどうかなんていうのは関係なく、そんな印象を受けてしまう。もちろん、これはいい意味で。他人の人生にこの言葉を使うのはどうかと思うけれど、「ドラマ性」が強すぎた。
   
人の魅力なんていうものはどういう要素で構成されているのか、私にはわからない。それでも、どこかで「人間は案外つめたすぎるぐらい冷静に、他人を見ているのではないか」と思っていて、だからこそ他人のことを「フィクション」として見つめる部分はあるはずだと考えている。だいたい他人に、美醜や善悪や幸不幸やらで値踏みをすること自体が、他人を自分と同じには見ていない証拠だ。多分全ての人間は、完全ではない。全ジャンル満点を取れる人はいない。それでも、平然と生きている。他人と会話をするしご飯を食べるし、自然を壊す。それは別に悪い事じゃないと彼らは思っている。それなのに、自分が満たせていない条件を他人に課して、値踏みをする。それは自分の同じ存在だと他人を見る事ができていないからだと私は勝手に思っている。
だからこそ、他人の人生は、どこかで「フィクション」なんだろう。友達が誰かと結婚したという話や、知り合いが三角関係だとかいう噂話を、酒の肴として消費してしまえる。テレビに出ている人なんて特にそうだ。街で一般人に「本当にいるんですね」って言われる芸能人は結構いるって話だけど、その感覚はもう仕方ない。これは全部悪い事でもなんでもなくて、しかたがないことだ。私たちは思っている以上に他人に冷淡だ。最低だ。想像力は命まで及ばない。それはもう仕方がない。悲しいことではあるけれど。
そして、だから、人生の「ドラマ性」はときに魅力に転じるのかもしれない。ドラマ性。それは「ふりまわされっぷり」だけで構成されるわけではなくて、逆に、「ふりまわされなさ」で構成される事もある。たとえば山口百恵さんは、なるべくしてなって、そして時期が来たのでやめた、というだけにしか思えない。あっさり引退してしまったというのも大きいのかもしれないけれど、明らかに特殊な人生を歩んでいるのに、それすら彼女の手の中からはみだしていないような印象がある。人生とは別枠の時間軸で、彼女はステージに立っていたのではないかと思える。いわゆるサブ垢みたいなかんじかな。でもだからって魅力がないわけではなく、彼女の「現実」ではなく「夢」を、消費していくことにたぶんドラマ性が生じていた。振り回されているのか、そうでないのか、は問題ではなくて、そのどちらにしても極端であることこそ関係があるのかもしれないね。
       
振り回されている人を見ると不器用なのかな、とも思うけれど、でもあんまりにも振り回されていない人を見ると、それはそれで不器用だな、とも思って、適度ならば振り回されることは身軽さの証で、そして振り回されない事は安定の証だ。そのどちらが異様なほど欠如しているっていうのはどっちにしたって不器用だな、なんてことを友人たちを見ていたりすると思う。そしてそんな視線は、客観的な物言いは、ちょっと冷淡すぎるんだとも知っている。でも、彼女たちの不器用さを、魅力だと、あるいは愛嬌だと思えるのだったら、このままでいいとか、最近は思う。