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季節も私の一部分

季節の変わり目に化粧品売り場に行くことが、いつのまにか当たり前になっていた。
化粧品なんて顔を修正するためだけのものだと思っていた私には、しばらく、緑だとか黄色だとか真っ赤だとか、そういう本来なら顔にあるわけもないカラーをのせることが不気味で仕方がなかったけれど、いつのまにかそんな感覚を忘れている。季節の変わり目には、新しい口紅の色やネイルの色を選びたい、見つけたい。欠如した頬の赤みを補うだけがチークだけではないし、彫りのたりないまぶたのために、影を演出するだけがアイシャドウではない。唇の赤みよりももっと、真っ赤な口紅があったっていいのだと、今なら思う。
化粧品の中で一番に、抵抗があったのは口紅だった。唇がすでに赤いのに、どうしてそんなものを塗るのか、十代の私にはわからなかった。当時はリップグロスが流行っていて、口紅ほど露骨に「塗る」という感覚がないからか、私はそれを気に入って、なかなか口紅になじまなかったというのもあるのかもしれない。血ですら表現できないような赤色を唇にのせるのは私にとって不気味で、きっと永遠に理解できないだろうとその時は思っていた。自分の顔のために、自分の顔の可能性の中で化粧をしていた。その頃、私はきっと自分とは、「自分の顔」、それから「体」それだけを指すのだと思っていた。
   
自分が世界の一部分であることに、本当の意味で気づいたのはいつだったかな。とおりすぎた木漏れ日から落ちてくる、あの黄緑色も私の一部で、そうして私の瞼もまた、世界の一部分であるということを、今は当たり前のように思う。だからこそ、顔に緑がかったアイシャドウを使うことも、当たり前のことになった。星の色。ネオンの色。そんな色が私の顔に灯ることも当たり前のこと。私の肉体には存在しえない赤色も、オーストラリアの赤土にはあるのかもしれない。そんな色を選択できる、ということ。特別なことではなかった。私はいつだって背後に風景を持っていて、その風景は要するに世界だ。世界の色を背負って立ち続けるなら、私の肉体になかった色も、この皮膚には与える事ができるだろう。
20代で、洋服に合わせて化粧品の色を変えるようになっていた。この色を着る日は、この口紅。その時、私は自分という存在が、顔だけでも体だけでもなく、洋服そのものまで及んでいると思っていた。たとえ血が通っていなくても、ただの繊維であっても、洋服を着た私が「自分」なのだと思っていた。今、その範囲が広がって、季節や天気そのものまで飲み込んだ「自分」を私は認識している。だからこそ、夏が来たら新しい化粧品を買おうと思う。私のためだけでなくて、世界が変わっていくから、その変化を共にする色を、探しに行こうと思う。季節は私の一部分。それだけの話。