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さみしくなりたい。

浅い関係でいてくださいと、願うようなこともある。共有するのは感情だとか苦労だとか不幸だとかよりも、お天気や食べたケーキがおいしいことだったり、そういう他愛もないものであってほしいと思っている。人間が複数いる限り、私たちは「私たち」にはなれなくて、たぶん永遠に個人がよりそっているだけなのだと思う。ただの群れだ。それを孤独だと思うことはなく、ただどこまでも他人でしかない存在とともにいて、他愛もないものを共有して、そのことを幸せだと信じて生きていく、そんな自分のひからびた感性をちゃんと、愛していこうと決めている。
   
先日から足がどうしてか痛くて、いたいいたいと他人に言っても仕方がないから黙っていた。仕方がないってなんなん、と言われることは結構あって、でも仕方がないじゃないですか。きみに言ってもしかたがない。ただの事実だ。他人とそういうものを共有したいと思うのは、どうしてもその人の人生に介入するようで苦手だ。他人の瞳に映るのは、私の皮膚と洋服で、たぶんそれが外の世界にとっては「すべて」であるべきだと思っている。それぐらいの浅はかさが健全だと思うし、それ以上は過剰でしかない。それに私は傲慢だから、「生きていて、一緒にご飯食べていたらそれでいいって思ってくれないかな」とも本気で思っている。足が痛いということを本当の意味で共有するなら、同じ怪我をしてもらうしかなくて、そういうことを望むエネルギーは、私にはない。
    
コミュニケーションはある程度深くなると、あとは互いのエネルギーの問題となる。もはやエゴとエゴのぶつかり合いにしかならないから。なにを知ってほしくて、なにを共有して欲しくて。そして、相手になにを、教えてほしいか。どこまで相手の沼に沈んで、相手を自分の沼に沈めて、それを楽しめるぐらいの余力を残しておけるか。私はそれがただただしんどい。私が私に対して冷たいからなのか、他人に対して冷たいからなのか。そんなこともふと考えるけれど、どうせそのどちらもだろうな、と思って終わる。みんな、ある程度は欲を持っていて、そしてそれのためにどこまでエネルギーを使えるか、というそこで個人差が出るし、それに答えられないのは互いに不幸なことだった。恋人を探すために全財産を使って世界中を飛び回る人もいれば、そういうことを冷めた目で見つめる人もいる。そこを、どちらかが妥協して合わせるなんていうのは不健全だ。私はエネルギーを使うのが億劫で、他人には優しくしたいと思うけれど、それでもそれはあくまで「親切」の領域でしかなく、他人の欲望にまで優しくする筋合いはないと、冷淡に思っている。そして、私が他人に対して放っといてほしいと思う、その欲望も他者に押し付けることはできない。だからせめて、挨拶や世間話の中ではやさしくありたいんだけどさ。私はただただ、冷たくありたい。浅くありたい。そこに正当な理由はなく、他人を説得するすべはないけれど、それが私の欲だ。他人と会話するためには、二人の内側にあるものをさらけ出していくのではなくて、そのあいだに通り過ぎていくもの。おいしいサンドイッチだとか、虹がでたことだとか、季節のこと。そういうものを同時に見ることができたならそれこそが最高なのだと思っている。友人としゃべることは、天気とか見た映画の話に終始して、いつのまにか彼女に恋人ができて、そして別れていたことを5年後に別の話題のついでに知った。他人の人生の背景になれるぐらいでちょうどよくて、そしてそれぐらいなら、同時代に生きているひとすべてと関ることができる。それは、密な関係を選ばれし誰かと結ぶことよりもずっとずっと美しく思えた。
孤独というのはどこにもなくて、孤独がどこにもないというそのことだけが私を私にしてくれている。そして他人の孤独を理解できないという点で、私は他人に対して冷たくなる。生きているということそれだけでも奇跡なんだというならば、私は私として他人からはぐれて、さみしくひとりで暮らしていたって奇跡で、なるほどそれはそのとおりだな、と思っている。