「坂本龍馬を斬った刀」

「坂本龍馬を斬った刀」が京都に展示されているそうで、これはなんだ、すごいな、と思う。たとえば数日前に起こった殺人事件で使われた凶器が展示されるなんてまあないだろうし、いろんなところから異論が噴出するだろうし、そのあたりですっかり坂本龍馬の死は「歴史」になったんだなあ、というかんじがする。こういうのってどこまでOKなのかなあ。昭和になるともう無理かな。普通に生きてても死んでいるだろっていうぐらい昔の人ならまあいいんですかね。いいって何だよって感じなんですが、でも人の死が時間の経過によって、ただの「現象」としておおっぴらに扱えるのは人間らしいし、正直、なんか安心する。事故物件がどうとか言われるけれど、池田屋の跡地はたしかレストランになっていますよね。あそこでどれだけの人が殺されたのかな。落ち武者の霊とかはこわがるのに、歴史的事象ならありがたくもあるというこの不思議。とかいっている私もやっぱりそういうところで食事をするのは平気だろうし、刀も「へえ」という反応にしかならないだろうし、もしかして私、歴史が事実だったって信じてないんじゃないかとか心配になるよ! でもそもそも歴史を信じるのって難しいことなのかもなあ、なんて元も子もないなあ。
   
おじいさんがどういう人であるかというのは会ったことがあればわかるし、自分の知っているひとが「こういう人」と説明してくれればそれものみこめるかもしれない。でもひいおじいさん、ひいひいおじいさんがどういうひとかというのは、会ったことがない場合やっぱりわからないし、親がこうだった、って言ってくるならそれを「ふうん」と聞くしかない。信じているのか、これは? とも思う。他人じゃないのにここまで他人事みたいに話を聞くのはなんなのか。冷たいのか、淡白なのか。しかし興味津々になるほうが、「え、いったいなんで?」と私は思ってしまうのだけれどどうだろう。祖先がどういう人物であろうが、子孫がどういう人物であろうが、実は結構どうでもいいというか、なんか関係ないような気がするんだよなあ。だって知らない人なんだし。血は繋がっていますけれど、だからってそもそもその存在をどうやって信じたらいいのでしょうか。テレビでたくさんの知らない人が、血も繋がらない人が、亡くなったときくと痛ましい気持ちになる。これってもしや差別なのか? 私は現代にしかリアルを感じられないのか? 人生経験がないからなのか? 自分がゆっくりと過去になっていくような、そんな感覚にまだ飲まれていないからだろうか。
   
死ぬのは怖いし、老人になるのも怖いし、それは単純に想像がつかないから怖いのだ。身近な人が死ぬのを想像して「ひい!」って声がもれたとき、私は「命の大切さ」を実感したような気がしてしまうけれど実際は、その人が大事だというそれだけだし、坂本龍馬を殺した刀になんとも思わない時点でその感覚は怪しい。それとも龍馬が死んだのはもうしかたがないことだし、痛ましいは痛ましいけど、覆ることでもないという、そういう冷静さなんだろうか。でも、だとしたら現代の大事件にも憤らないで済ますんじゃないのかなあ。子供たちがこれからも生まれて育って、未来を創っていくのだということに優しい気持ちになる、そんな年上の人たちが私は正直怖いです。自分よりも未来を見つめるというそのことがなかなか理解できない。私は今が大事だよ。過去にこれからなっていくのだということ、自分は未来のために死んでいくのだということをハートウォーミングストーリーと受け取ることはできないし、だから龍馬殺しの刀に涙もでないし、ぞっともしない。なんかそれはおかしいんだろうな、命なのに、命、とぼんやりと考えるけれど、そもそも、私は人を人として大事には思っても命というものそのものを見たこともない、信じてもいないのかもしれないなあ。それってどういうことなんだろうなあ。なんか怖いね。視界の中の足の指をぎゅっとまるめて息を吐く。