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今日も、あの歌は歌われる。

Mステで結成20周年だとかでくるりが「東京」を歌っていた。私はもう大人になっていた。テレビをつけっぱなしにする癖がもうとっくになくなっていて、だからくるりのタイミングを狙ってテレビをつけた。はじめて「東京」を聞いたのは15年ぐらい前かな、なんてことを思う。くるりはその日オリジナルメンバーで、それ自体が久しぶりのことだった。20年ぐらい前の曲が、今Mステで初披露されていて、たぶん女子高生ぐらいの子が「エモい」っていっているのをツイッターで見かける。エモいなんて言葉、当時はなかったよなあ。私が「東京」をいい曲だなあ、と思ったのは15年前で、そのとき、東京のことなんてよく知らなかったし、多分当時の「東京」を私は知ることができない。上京するということもどういうことなのかわかっていなかった。だからなんで、「いい曲だなあ」と思ったのかは正直なところわからない。
   
東京という街は特別だ。私は具体的な地名を詩に書くのは好きじゃなくて、それは読む人が知らない土地だとそこでイメージが止まるからだった。でも、東京は知らなくても、知らないという事実がまた別の意味で特別ななにかをもたらす。私はまだ学生だったし、将来のことを考えてこわくなったりもしなかった。よくわからないけれどとりあえずまだまにあう、なんてことを思っていた。そんな私が見ていた「東京」という場所は、たぶん今見ていたものとは違っていて、そしてこの歌で歌われている「東京」とも違っていて、そのずれをうめるようにしてメロディーが流れていたのだろう。Mステで15年後、「東京」の演奏を見て、思ったことは、ただただ、私も、くるりも、それからきっと音楽ですら、時間を止めることはできない。みんなみんな老いていくのだということ。完成した作品ですら、時間がたてば変わっていくんだ。いまこのときに聴いた「東京」はたぶん誰かが言ったように「エモい曲」で、そしてその東京にはポケモンがいて、iPhone7が予約開始されて、カープが25年ぶりに優勝し、そして4年後にはオリンピックがやってくる。東京という言葉にはもうそれらがしみついて、15年前の「東京」なんて必死で掘り起こさなきゃ見つからないだろう。そして、だからなんとなく、今の私が、今のくるりが、今の「東京」を歌っているその姿を見ている、というそのことが素晴らしいと思えた。なにもかもがもう一度「現在」に生まれ変わったようだ。懐かしさでも思い出でもなく、「今」として。すべてが追いついた、そんな感覚に襲われていた。
   
Mステのあと、アルバム「さよならストレンジャー」をとりだして「東京」を聴いたんだけれど、予想外に「あれ?」って声が漏れてしまった。Mステで見た演奏は当時のすべてが蘇る感覚だったのに、その演奏とアルバムの「東京」はなんだか全く違っていた。いいとか悪いとかじゃなくて、ただただ違った。Mステで見て、「わーあの時きいてた「東京」そのまんまだ!」なんて思って、だからこそ15年前に聴いたアルバムひっぱりだしたっていうのに、そこにあった「東京」はMステの「東京」とは違う響き方をしていた。よく考えたら全然ちがう。録画したのを見てもやっぱりちがう。どうして、そのまんまだとか思ったんだろう。思い返してみれば、別にこの15年間一度も「東京」を聞かなかったわけじゃない。ときどきはこのアルバムをきいていたはずで、そのときに一度も「蘇る」感覚にはならなかったな。懐かしいと思ったし、思い出の曲として触れていた。過去を切り離して、「現在」だけのものとしてはどうしても聴くことができなかったんだ。アルバムの「東京」はもう私にとっては「過去」でしかないのかなあ。昔のくるりが、昔の「東京」を歌うのを、今の私が聴く。この時間の差を埋めるために、どうしたって懐かしさや、思い出が頭の中に浮かんでしまう。それも悪いことではないよ。十代の自分の気配がする。でも、やっぱり、はじめて「東京」を聴いた時の私とは全く違う聴き方をしている。
   
作品は完成したらそれで終わりのような気もして、時間が止まるような気もして、でも本当はそんなことないんだろうなあ。変わらない気がして、むしろ変わらないでいて欲しいとすら思って、当時のCDを大切に聴いて、昔のライブ映像とか見たりして。でも、やっぱり作品だって歳をとっていく、あの時代のあのころの気持ちを冷凍保存するような、そんな寂しい役割しか担っていないわけじゃない。なんとなく、同じ時代に好きなアーティストが生きていることの幸福を思った。過去としてではなくて、歳をとった今の作品に触れて、変わってしまったというのに、変わってしまったからこそ、もう一度自分と出会い直してくれる作品のすばらしさを思った。全員昔とは違う。作品も違うけれど、それでも、私はあの時と同じような鮮烈さで出会い直しているはずだ。15年前のあのとき、「東京」を聴いて「いいな」と思った私の気持ちにはもうなれない。でもそれはさみしいことではないよ。くるりはまだ歌っているし、私はまだ生きている。「東京」の街はまだそこにあって、これからもあって、そして、過去の私には今の私が、今の「東京」を聴いて、どう思うかなんて想像もできないだろう。分かり合えないし、互いに、忘れていくけれど、それは「今」として生きている証拠だとすら思っている。
   
   
(追伸。ブログが書籍化することが決まりました。秋に出ますのでよろしくおねがいいたします。)