読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

言葉は悪人になったほうが書きやすい

言葉は悪人になったほうが書きやすいと思う。炎上だなんてものがあるけれど、それは書き終わったあとの話で、書くときの居心地の良さは善人として言葉を紡ぐときよりずっといい。もちろん私が私として語るのが一番よくて、悪人にも善人にもなりたくはないけれど、文脈によってはそのどちらかを選択せざるをえなくなるときがある。人に何かを説得するときの文章なんてまさにそうだ。あなたが正しい、と言われたいがために、言葉で私を善人に見せかける。

ああさみしいな、つらいな、こういうときこそ、言葉は凶器だと思う。私は私を殺して「善人さん」を作っているだけだ。私を、守ろうとするときに、書く言葉こそ凶器だと思う。私は私のことがどうだっていいときじゃないと、きっと自分で好きになれる言葉は書けないんだろう。どうして、言葉で交渉しなくちゃいけないのか、相手の非を追及しなくちゃいけないのか。たぶん、書くことを仕事にしているからなんだけれど、強度を強度としてつかおうとしたとき、私は一気に言葉を書くことが嫌いになる。
それでも言わなきゃいけないことがあるときもあり、むしろほとんどのひとが、この苦痛を感じていて、それでも善人になる必要があるというその悲しみに沈んでいる(はずだ)。善人としてふるまう人の姿はいつだって痛ましい。私にはそう見えてしまう。それほどに他者に傷つけられたということだ、そう、善人として書かれた言葉を読んでいるといたたまれなくなる。この人だって、本当はもっと利己的なことを言ったりわめいたりしたかったんじゃないかと考えて、そんな自然な振る舞いすらできないほどその人が追い詰められていることを悲しく思う。(実際はわかりません。みんな、私よりずっと心がきれいなだけかもしれない。)

本当ならきれいなこと、正しいことも欲望として語ることができたはずだ。こどものころはそうだった。それがいちばん気持ちいいから、大切にしたい、というそれだけだった。でも今はもっと、利己的な部分があって、正しさやきれいなことだけで自分が満たされるとは思っていない。要するにあんまり善人じゃないんだよなあ、これは私だけかもしれないけど。だからこそ、冷静に語れだとか、論理的に話せだとか、そういうことを強いられるともうほんと勘弁してほしいと思う。だれかを説得するために、正義を手に入れるために、言葉を使うのが苦痛でしかない。善人として言葉を選ぶたび、私から言葉が剥がれて、ただの理屈の装置となるのがわかる。私はその理屈100%で生きてないのにな、と痛くなる。たしかに強力だけれど、それは私を守ってはくれるけれど、私は、善人になることで、私そのものを殺してしまっている、そんなことも同時に思う。


このブログやら他の雑誌に載ったエッセイやらをまとめたエッセイ集が10/24に発売されます。書店さんやらアマゾンやらで予約受付中です。

 エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』
  
 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。