ファッションいいなファッションいいなファッションいいな!

ファッション誌「SPUR」で1年間詩の連載をやっていました。いました、というのは今発売中の3月号に最終回が載っているからなんですが(終わってしまうのさみしすぎるーあーああーげほげほ)、それはともかくとして先日、美容室で読んで、忘れらなくて、みたいなことを言ってくださる人がいて、「ああ美容室!」ってなりました。美容室でふと詩に出会うとか最高じゃないですか?
美容室での言葉の読み方って日常の読書よりもかなり淡いというか、「読むぞ」って気持ちが極限まで減らされて、ある意味、瞳と心とからだが、言葉に対して丸裸だと思うんです。そういうときに触れられる詩が書けるの嬉しかった。ファッション誌の仕事はそういう意味で私にとって特別です。SPURの他に、花椿とかGINZAとかNumeroとかで詩を書いてきたけどどれもが特別だった。私がそういう雑誌が好き、というのもあるのだろうけれど、しかしそもそも詩というありかたが、ファッションというもののありかたをまぶしく思っている、というのもある。

ファッションというのは、「説明はいらない」ということをかなり自然にやっている特殊な分野だと思っています。なんにだって理由が必要で説明が必要で、だからこそオチとかおもしろさがはっきりしていて、早急にそれが手に入るコンパクトなもの、もしくは波の激しいものが好まれる時代ではあるけれど、ファッションにはそんな単純さは求められていない。「なんかいいな」をみんな分解して理由付けしようとなんてまったくしなくて、そして「しない」ということにすら無自覚だ。自然にもほどがある。だからこそ、ファッション誌を眺める瞳は、非常にピュア。そこに挟み込まれた言葉に対してもどこまでもそのままの感性で向き合っている。だから、詩がそこに惹かれていくのはある意味当然なのだろうなあ。そもそも詩とはそうした、「なんかいいな」があれば十分なものだと思っている。私にとってはそう。わからなくてもいいし、共感とかできなくても、でもなんだか奥の方で「いいなあ」と思えたらそれが詩を消化した、ということだとおもう。いま、「消化」と「昇華」どちらにしようか悩みましたよ、どっちもあると思いますよ。どうしてそこにこの言葉があるのか、理路整然と説明できるだけの文章だけが必要なはずもなくて、そもそも人の心の中に渦巻く言葉はすべて校正が入っているはずもないし、支離滅裂だし、めちゃくちゃなままでいるのが自然だ。だからそこにストンとくる言葉が書きたいな。意味はないけれど赤色を着たい日もあれば、寒くなくてもつけたいストールがある。美しいものをみたとき、自分を失っていくような喪失感に襲われるのは、その美しいものに対して、自分自身の理性が全く必要とされないからだろうと思う。理解する必要がない。どうしてそれがそこにあるのか、どうして美しく見えるのか、ということを考えなくていい。そんなものはどうだっていいと思えるほど、最初のインスピレーションが強烈で、それに浸り続けるだけでそのすべてを消化できる。それが、「美しさ」の持つ力なんだと思う。そしてその力に対してなんの疑問も抱かず、受け入れられているのがファッションというジャンルなんじゃないか。
美容室でファッション誌を見ているときの感覚は、別に研ぎ澄まされているわけでもなく、むしろどこかぼけっとしていて、ほとんどのことが右から左に流れていく感覚。でも時々どうしても忘れられない写真や言葉があり、一つでもその雑誌から見つけられたら、いい雑誌だったな、と思う。なにもかもを自分のものにする必要もなくて、むしろなぜかわからないが心に惹かれる、というものが特別な分、それ以外には非常に冷徹。その、どちらでもいい、どちらでもいいからその視線に私の言葉がさらされることが幸せだったなあ。連載は終わったけれど、ファッション誌の仕事はこれからも大切にしたいなあ。いい一年でした。


  
  
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