自分の限界はきっとここだと。

技術が追いついてないものが好きだ。お金が足りてない、人手が足りてない、めちゃくちゃに足りてるのはほとんど「直感」と言い換えられる才能と、焦りだけのものが好きだ。経験値なんてない、定型なんて知らない、わかるのはこのへんがなんとなくいい感じ、みたいな感性だけ。そうした人が作った作品が好き。バンドは初期が大抵好き、その人の好きな音楽、影響受けたものがちょっと顔を出しながら、あきらかにブーストかけてるのはその人自身の、その人もよくわかっていないような、勘みたいなセンス。時には音質が最低すぎるインディーズ版ばかり聴いて、メジャーになってからのベスト盤でおなじ曲聴いてもピンとこなかったりする。なにも足りてないから、なににも慣れてないから、その人のほとんど反射神経みたいな感性が露呈して、息遣いが聞こえるみたい。その人には今しかなくて、蓄積もなくて、それでも、いや、そうだからこそ、焦っている。なんで焦るかもわからないけど、100%出せてる気がするけど、どこかで経験積んだ未来の自分が今の自分を未熟だったと言う気がして、でも絶対俺は今、経験つんで方程式おぼえて、泳ぎやすくなった未来の俺よりがむしゃらで、必死だからこそ鋭敏なはずだとわかっていて、だから焦ってるのだ。自分の限界はきっとここだと思っている、やりきらなきゃと信じている、それなのになにもかも足りてない、なにもかも追いついてない人のつくるものが好きだ。
  

人間ほどに賢く、人間ほどに間抜けで。

体調が悪くて物を書くことができなかったので、Wii Uのゲーム「スプラトゥーン」をやりました。(インクを撃ったりなげたりして陣地を塗っていくゲームです)蛍光色に対する機敏な反応を見せるようになってしまいつらいです。イカがこんなにかわいいなんて…どういうことなの!もういかめしとかたべれない!(たべます)一色に染まるのってある種のカタルシスがあるよね。
久しぶりにゲームをやるとなんていうかやっぱり対人戦がおもしろいよねそうだよね、っていう気分になります。(このゲームは基本オンラインゲームです)一人でできるストーリー?モードもあるんだけれど、結局機械が相手となると、「敵がバカすぎる」もしくは「完璧すぎる」ために面白くなくなるんですね(たぶんよく言われていることなのにこうして「ですね」とか言っちゃうのが苦痛ではありますが、しかたがない!)。どちらもある意味、動きすべてにルールがあって、それが露呈しているので人間のような不確定要素がないのだなあ。どれぐらいバカかどれぐらい頭いいのかが曖昧で、そして状況によってそれが変化する人間という存在は、ゲームの敵にするには最善の存在で、まあ人間は永遠に対人間で遊んで時間をつぶして死んでいくのだろうな、なんと自然な…、とか思うのでした。でも、社交辞令とか社会とか上下関係とかどんどん人間はルールの枠をつくって、そこに体を埋め込もうとするよね。なんでなんだろうね。個性殺してどうすんだよ、とかそういう話だよね。でもそこから外れた人は怖かったりもするよね。なんでだろうね。凶暴さというか本性みたいなものがでて楽しいのは、たかがゲーム、ぐらいの範囲じゃないとやってられないのか。あ、だからこそゲームって楽しいのか。ふーむ。なるほど…。ゲームが生まれてよかったとなんとなくこれは、思いますね。
   
フィクションとかもさ、人間の凶暴さとか本性みたいなものを安全圏から眺められるという点での娯楽性もやっぱりあって、なんていうかそういうのって悪趣味といえば悪趣味なんだけれど、スポーツでは肉体の限界を極めた人を見るのが楽しいわけで、それの精神版っちゃそうなのかもしれない。っていうか、本性といえば悪趣味、と思う方が悪趣味なわけです。人間の本性は愛かもしれないだろ!優しさかもしれないだろ!(と、ここで書いたところで歯が浮きますゾってことにしかならないしだからこそフィクションは存在する。)でもやっぱりリアルな本性的なものをぶつけ合えるゲームとかは面白いなあと思う。スプラトゥーンは直接罵倒とかされないしそれもありがたいですね。
   

ストーリーテーラーは必ず記憶喪失に。

時々わからなくなることがあるのだけれど、小説とは一体だれがどうしてなんのために記述したものなのだろう? ということで、シャーロックホームズシリーズはワトソンがホームズの活躍の記録を残す意図で書いた小説、という設定があるけれど、そうではなく、一人称で書かれていながら、その一人称の主が自分の周囲のできごとすべてが小説として記述されていることすら知らない場合(っていうかそれがほとんどだけども)、その言葉はどのような理由で、「書く」という行為に至ったのか? そこが気になってくる。いったい誰の意思で、形として残されることになったのか? それはもちろん、「作者」の意思であり、「読者」の意思もきっとあり、「編集者」の意思だってあったのだろう。でも、それだけだ。登場人物は知る由も無い。つまりそうしたときに生まれた小説とは、読まれること・消耗されることを前提として書かれ、存在の根拠は物語の外にしかない。内容はあくまでその物語世界のできごとをつづっているのにその小説自体は、その世界には存在すらしていないことになっている。そうしたメタ的な感覚は、物語を書いて、没頭しすぎると忘れてしまって、時々、なんのために書いているんだろう? と記憶喪失みたいになるのです。まあ、書くのが楽しいからなんですけれど、書くのが楽しいから、というのは結局作者の都合でしかないので、なぜこの物語はおとなしく書かれているのか? ということ、物語の内側にとって私に書かせなければならない理由はあるのか? ということ。小説の存在からなにから、すべて物語の外側の都合でしかないことに、ときどき怖くなるんですよね。たぶん、宇宙の外側には「空間」すらないとか言われた時の途方もない感覚に似ているんですけれど、怖くないですか? なんだかすべてがとてつもなく無意味な気がしてくるんですよね。どうあがいても、関与してくるのは物語なのです。我々は物語に干渉できない。ただ観測しているだけ。締め切りがあって、記述しなくちゃいけなくて、でも、向こうはそれを知ったこっちゃないってかんじでいる。なんか、向こうの方が…本物みたいじゃない…?なんてことまで思うときはよっぽど疲れた時限定ですが、まあ、ちょっと混乱、変な感覚にはなるのです。別に物語なんて現実のための消耗品なんだからいいじゃん、って言ってしまえばおしまいなんですが、でもこういうのも、物語というものを書く面白さのような気がして、だからそういう時は割り切らずにぼーっとしてみることにする。すべてをコントロールしているつもりで、本当は自分の自由には少しもなっていないような、そんな感覚になる時、物語を作るのってこういうかんじか〜変なの〜ってちょっとだけ分かった気がするのです。(未熟者なりにね。)
  

ワーク・ワーク・ワクワク!

なんか締め切りがたっぷりある。うれしい。タスク一覧見てほくほくしている。原稿を待ってもらえるというのは本当に嬉しいことだし光栄なことだし、もちろんちゃんと間に合わせたいと思うし、いいものを書きたいし、いいことしかない。(私はこういうところで尋常ならざるタフさを見せるのでプレッシャーとかは高校物理における空気抵抗レベルで無視します)締め切りにたいする対応は基本的にぎりぎりまで送るか悩んで結局送るか、むしろ依頼受けてすぐ書いてでもすぐ送るのもあれだなって悩んでワンテンポおいて送るかのどちらかが多いです。小説とかあんまりすぐに送ると、相手方もすぐ読まなきゃ!って困らせるのではと思っているので、ちょっと寝かせたりします。なぞの気遣いです。(どうでもいいですけどすごく気を使ってくれる人と会うと、ありがたい反面、「きっと私、この人にとってものすごく気を使えてないんだろうし、それでうんざりされてたらどうしよう」とか思いますよね。親切の基準が高い人って、なんていうか自分もそれを求められている気がして、そしてそれがきっとまったくできていないとわかって、こう、嫌われてそう100%ジュース飲んだような顔になる。(なんだこの日本語))
ということで忙しい自慢でした。でも本当は多忙って言ったら多忙の精霊にぶん殴られる程度しか忙しくないのでこれからもお仕事は大募集中です。よろしくお願いいたします!
   
なんの話だろう。こういう仕事をしていると、まあ、すっごく身にしみることは、「自分をある程度認めてくださっている」方としか話さなくなる、ということです。自分の作品を知ってくださっていて、なにかに可能性を感じてくださっていて仕事を依頼してくださっている人としか話さないので、人間として大変、コミュニケーション能力が落ちます。基本、自分に興味持ってくださっているじゃないですか。こういう状況って本当に異常で、普通社会ってのは自分に興味がないし、自分のことなんてゴミクズだと思っているし、見向きもされないものなんですよ。で、そのことを忘れる。そうするとだんだん、自分の作品とか自分の商品価値とかを見誤るようになるのです。ものを作る、売る、というのは自分のことを好きでいてくださる読者の方だけに届く行為ではなく(だとしたらファンクラブつくったほうがいい、年会費をもらって会誌の作品をのせる)、もっと広いところに届くことを望むべきだと思うし、望むからこそ私はそれをしているんだし、それなのにそういうの見誤ったらやばいだろ、と本当に思う。少し前に、今は仕事相手であるとあるところに、飛び込み(アポは取ったから厳密には違う)で話に行ったことがあって、私のことをまったくご存知ない編集さんとお話ししたことがあります。いやー、面接みたいなもんですよ。頭がめちゃくちゃにキレる方であったため、10秒20秒と、商品価値を測られている気がして、なんていうかそれはそれで楽しかったです。自分のことをどれだけ端的に伝えられるか、(まあ伝えた後は相手の価値観とか判断基準次第なので私にはどうしようもない)そういうのって、まあ、実はね、自分の能力を100%試す場でもありますよね。言葉使って仕事してるし、そりゃあ一番よく知っている最果タヒっていう存在をちゃんと伝えられなくてどうするってかんじですよ。という意味で楽しかったのです。おかげで今、そことのある一つの仕事が生まれ、ちゃんと進行しているし、そろそろ形にもなろうとしている。なんか自分が試せて最高なんですとか言い出すとたいへん意識高い臭がするし、それはいやだし、ほんとう、そういう意味ではないですけど、世界のこと忘れたくないから「自分のこと知らない人」のこと、忘れちゃダメだね、っていうフツーの話です。
   

獣じゃなくなる2015

うう……和食が美味しい……(つらさ)。これはつらさ、和食が美味しいと身にしみた2015。「マクドナルドまじおいしい」とか言えない年頃になってしまった。胃もたれ…とまではいかないものの、油の後味が耐えられない…すべてのおいしさを台無しにされる感じがするのです。なぜだ。油の後味なんてむかしからかんじてたはずで、それを気にしていなかっただけなんだけれど、最近それが耐えられない。少し前から食後のコーヒーがかかせなくなり、それで洗い流していたのに、最近はそれすらも焼け石に水っていうかんじ。いや、コーヒーも飲むけども。でも、後味洗い流すためじゃなくてじゅんすいにおいしいコーヒーを飲みたい、とかっておもっちゃうかんじ。ああああああー!若さがー!私の若さがー!(さがー!)まあとにかく、ラーメンとかさ、焼肉とかさ、最初が一番美味しい系に対して、「でも最後つらいじゃん…」とか言い出すようになってしまいました。つらいです。最後までおいしい、満腹感がおいしい、という和食のすばらしさに勝てません。ああ、つくねとか焼いて梅とかのっけて食べたいよね。ね。さっぱりさっぱり〜。だめだ、獣性が死につつある。やばい。
   
獣感というのはあったほうがいいです、ないよりはましです。人間なんぞ獣じゃ!文化的な部分は脳内にあればいいんじゃ!生きるのに強さがなくてどうする、貪欲さがなくてどうする。生とは欲望を凝縮したものであり、欲望が枯れていくとそもそも生きる感が枯れていくので、美味しいもの食べたいとか、たっぷり寝たいとか、そういう欲望は大事にしていきたいよね。そういうのにあふれている人最高だよね。若い女の子のわがままとかききたくなっちゃう。たくさん食べる子がかわいいとかもよくわかる。おばあちゃんとかが孫になんでも買ってあげちゃうのもそういうことなのかなあ。欲望とは若さであるのな。すばらしいな。で、そういうことをすばらしいなとかかわいいなとか思い始めたのはたぶん「老い」の始まりです、やばい!
   
まあそんな話はどうだっていいんです。実はこのブログを書き始めた理由は、少年ジャンプ+というサイトで最近「賢い犬リリエンタール」という漫画が再連載されていてそのことを書きたかったからなのです。なんで和食の話しちゃったんだろう…。これは以前に週刊少年ジャンプで連載されていた漫画でして当時私は「こんないい漫画ない」と感激していたのですが、ふたたびこうして読めて嬉しいです。改めていろんな人がこの漫画を知ってくれたらいいのに。でももっともオススメは単行本最終巻に書き下ろされた後日談?なんですが、とにかくまあ、ここでなにを言うよりも、読んだ方が早い、とは思います。そんなこんなで、6月9日!(あ、新連載「ぼくらは殺意日和」がはじまる別マガ7月号の発売日だ〜!(しらじらしい))
  
賢い犬リリエンタール  1 (ジャンプコミックス)
   

POPとは出し抜くことと見つけたり。(575)

なんだかまた仕事の話を書いてしまって退屈だったので全部消して「億万」の話をしようと思う。億万。この言葉はやばいと思うのですがみなさまいかがお過ごしですか。だって意味が通ってない。もちろん億万なんて単位はない。簡単に考えれば、「千万」とかの千が億に入れ替わったってことだけれど、つまり億万とは、一億×一万ということ。あ、つまり兆だわ。でも、億万の方が言葉として強すぎる。なんというか、思い切りがよすぎるバカみたいな、絶対勝てないかんじがします。誰が最初につくった言葉なのだろう。億万長者とかあるから、結構昔からの言葉なんだろう。もちろん辞書に、億万は「たくさんある」みたいな意味だって書いていあるのはわかってますよ。でも、それでも、変じゃないですか? なんで万億じゃないの? 百万石とかいう言葉もあったんだから、千万とかでもよかったんじゃないの? なんで飛び越えて億万なの? 数学のルールをどうしてそんな無視したの? 熟語の中で掛け算やってるのはどうして? 兆って言えばいいのにどうして? ああ……言葉を作った人のところまで飛んで行って聞いてみたい。そしてそれよりすごいのは、そんな意味不明な言葉をさらに「億千万」とリライトしてしまった人物です。さらに千を…! 物理法則を無視しすぎだろ! これ、最初に書いたのは誰なんでしょう。阿久悠でしょうか。(郷ひろみの2億4千万の瞳の歌詞に出てきます)でも、だとしたらさすがすぎて震えるなあ。
   
私はなんていうか思い切りがよくそのままの勢いでゴールまでつっきったような作品が好きです。去年の天才てれびくんのエンディングテーマ「にっぽんなんばあず」はとんでも歌詞が素晴らしくて、ああこういうのを書けるのが本物だ……(なんのだ)と思ったものです。ではちょっと歌詞を引用してみましょう。

1本はポだけど
2本はホ
3本はボだけど
4本はホ
5本6本7本もホ
でも8本になるとポ

はい。なにこれ、って言いたいのはわかります。でも、私はこういうのに憧れるんです。なんてシンプル。誰でも楽しい。誰でも覚える。そしてこれで歌にしてしまうという視点だけが異質。あああああ!こういうの書ける人間になりたい!(ちなみにこれ、作詞作曲石野卓球です。さすがとしか言えない)誰でもかけそうだし、誰でも思いつきそうだし、すっげえしょうもない、と言いたければ言える。そもそもこのしょうもなさ、とはシンプルである証明みたいなもの。だれでも思いつきそうというのも、だれでも共有している情報しか使っていない、つまりめちゃくちゃポップだという証拠。誰でもかけそうなのは、それぐらい言葉がシンプルに削ぎ落とされて、情報だけを100%の純度で伝えている証拠。(だって、これ、「あ、『本』っていう言葉の読みについて歌ってるのか」ってなんとなく読んでたら気付けるのがすごい。「ああ『本』の読み方って変だよね〜」みたいな説明歌詞などどこにもなくても、ぽとかほとか言ってたらだんだん伝わってくるという仕組みです。で、だからこそ気付けた時のちょっとしたアハ体験(使い方正しいかは知りません)があるわけで、それが楽しさに寄与している。説明しないからこそのおもしろみがここにはあるんですよね。子供とか、だんだん言葉覚えていって、番組が進むにしたがって歌詞の意味に気付いちゃったら嬉しいだろうなあ。)なによりも、もしNHKから依頼を受けて、子供番組のエンディングテーマとだけ言われて、なにも思いついていないまっしろな状態から、「そういえば1本とか2本って、ほとかぽとかぼとかばらばらだよね、それを歌にしてみよう」とかに思い至る人がこの世にどれだけいるんだろうか。しかもその思いつきをここまでシンプルにわかりやすく、楽しく歌詞にできるひとが、どれだけ。簡単そうで、自分でも思いつきそうで、でもまだ誰もそんなものを歌詞にしていなかった、そんなテーマを見つけ出せるということは、結局歴史上に生まれてきた人類を全員出し抜かなくちゃいけないってことで、それは、やっぱり最強の天才なんじゃないでしょうか。POPとは出し抜くことと見つけたり…。(終わり方がよくわからなくなったとき、私は変な575をつぶやき終わらせるくせがあります)
   

にっぽん・なんばあず

にっぽん・なんばあず

  • 住岡 梨奈
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
   

青春は、命より先に死んでしまうもの。

打ち合わせ打ち合わせの6月。最近、夏に小説連載がふたつ始まるので、「忙しいんですよね」という前提で話をされるのだけれど、その片方(あさって発売の別冊少年マガジンで始まる!)は、実は書いていたのは去年の初春なので、もちろんとっくに最後まで書き終わっており、今はゲラとか見たりするぐらいで、そんなこんなでそこまで忙しくはないんです。もう一つの方も書き始めはさらに前だし、もちろんすでにある程度書いているわけで。いや、それでも他の仕事をやってはいるわけですが。でも忙しくない。書くことはなにより楽しいし、休憩があったって結局別のものを書くだけなので、忙しいとはどういうことなのか正直わからないけれど、たぶん、毎日100枚ぐらいのゲラをチェックしなくちゃいけなくなったら、忙しいと思うとは思う。ゲラは仕事感が強いなあ。なんでだろう。今私の眼の前にはゲラが2束あるのだが、重みがありますね。(ありますね、じゃなくてさっさとチェックしろ。)
今度はじまる連載はどっちもつまりかなり前の作品で、去年発表した「星か獣になる季節」とか「きみ、孤独は孤独は孤独」とかよりも先に書いていたかと思います。でも実際に世に出るタイミングというのはかなり違っていて、っていうか「星か獣」と「孤独は孤独は」は近い時期に掲載されたのですがこの二つだってかなり書いたタイミングはずれていて、まあ、あれですね、こういうことはよくあるのですがそれが私には面白いです。私は自分の作品を客観視することが苦手なので、こうして世の中における自分の作品が、自分とは結構なズレを持って存在することは、客観視の手助けとなるのでありがたかったりします。インターネットだと逆にタイムラグが完全に消えるし、それはそれで楽しいのだけれど、本ができるまで時間がかかったり、するのもなんだかいいものだなと思うようになった。時間が経つと作品と距離ができる分ちゃんと、自分も作品を消費できるのだ。ゲラも、時間が経っているものであればあるほど、見るのが楽だなあ。
   
ということで、ブログではあまり告知はしないようにしているのですが、小説「ぼくらは殺意日和」(絵:はっとりみつるさん)が、6月9日発売の別冊少年マガジン7月号で連載開始です。猟奇殺人に憧れるちょっとひねくれた17歳の男の子と、過去に人を殺してしまったことのある女の子が出会うことで始まる青春ミステリーです。初回はなんと、はっとりみつるさんの美麗すぎるカラー扉がついています。センターカラーとかいう言葉が私の告知に入る日が来るとは…!さらにその裏に、この小説にあてて私が書きおろした詩が不思議な写真になって掲載されています。これから月1連載です。別マガは毎月9日発売です。どうか読んでください。よろしくです!(書籍化はぶっちゃけ未定なので、連載で追っていただけると嬉しいです。)あとアンケート回答もよろしくです!

別冊少年マガジン 2015年 07 月号 [雑誌]

編集者さんがつけてくださった煽り「17歳。ぼくの隣に死がある季節。」が素敵だ!!!