しんどい

学校の授業とかで、差別について学ぶとき、それから日常において差別や偏見について話すとき、「差別をしてはいけない」という視点で語られることがほとんどで、「自分が差別される」ことに対してどうしたらいいのか、話されることは少なかった。あなたは差別されるのだ、不当に、突然、この世界はまだそんななのだ、と学ぶことは極めて少なかった。だから自分が「差別をしない人」になればいいんだと思った、偏見を持たない大人になろうと思った。でも本当はそんなものでは少しも足りない、世界は善人が一人増えたところでどうしようもない状態になっている、なにより、善人になろうが悪人になろうが関係なく、あなたは無数の人間に差別される可能性があるのだ、ここは、そういう世界なんだ。という、そのことが昔のわたしはよくわかっていなかった。

差別はいけない、と話すときに、自分たちを当たり前のように、するかしないかを判断する側においていることは、よく考えればとても想像力のないことで、するかしないかの側から見える差別なんて一面的なもの、すごく楽観的なもの、だと思う。なぜなら差別が「差別」の顔をして現れるのは、「自分自身が差別される瞬間」に決まっているから。自分を差別するかしないかが、他人に不当に決められてしまう、わたしが差別するかしないかを決めれば世界は少しはよくなるはず、という考えも、「誰かが差別されるかどうか」を自分が決めるという歪な状態を、どこかで見逃す行為かもしれない。差別されることについてどうするって怒るしかなくて、いい加減にしろよ!!って言うしかない悲しみしかなくて、そのときに「わたしは差別をしない」なんて、「当たり前だ!!!」しかなくて(でもこれだって別に簡単なことではない)、でもそれ以外にできることってもうマジで「マジかよ」って言うような少なさで、「差別される自分」という像を救える自分がどこにもいない、だから虚しくなる、虚しくなってちゃいけないんですけど、虚しい、虚しいっす。世界頼むよ、ほんとになんでそんなもんがあるの。強くなりたいわけでも、正しくなりたいわけでもないんだよ、自分じゃなくて世界に変わってほしいって思っている。

不自然による不自然のための不自然なコミュニケーション

人に気を使ったり使われたり、顔色を見たり見られたりすることが苦手で、誰に嫌われてもいいし好かれてもそれにそこまで価値を感じていないという態度を他人にいくらでも見せられる人は、自分を貫いてかっこいいなと思うが、誰に嫌われてもいいなら私なら誰にも会わない、と思ってしまうのだった。

無愛想だが失礼でなくて、自然でいつも本心でものを語っていると感じる人間にすごく憧れる。でも私が全て正直になると、家から出ない、人と会わない、電話をとらない、ご飯を食べる、寝る、ゲームする、昼夜逆転、原稿する、で終わる。人とのコミュニケーションは、それ自体がもはや私にとっては不自然だ。人が嫌いとかではないんだけど、人の存在が日常とか生活と地続きというよりはすこし着飾ったものに感じられる。暮らしというよりお出かけであり、特別であり、人と話すのはだから疲れるし、気を使うし、正直や無愛想とかでなく、マナーや親切のレイヤーが自然となっていく。どうしてもそうなってしまう。

そういう自分をダサいと思っていたが、しかし他人に素直な自分を見せること自体が私の「自然」には入っていなくて、他人がいる時点で異空間なのだ、ここで異空間にうまく合わせることでしか動けないのが自分の正直なところ、なのだろう。だから精一杯、「っぽく」振る舞うし、かっこいい自然な人間として生きることはもう諦めている。俺の自然がそうさせてくれない。それだけだ。
‪だから友達はできない。もうほんとできない。できないことは仕方ないとしか思っていない。失礼がないように、ということだけを守って行動するわたしは、目的がない会話が成立しないし、結局仕事関係の会話だけして終わっている。そこに不満はなくて、それなりに生きてしまっているのですよね……。大学で学んだ最も重要なことは、人は簡単に行方知れずになる、ということだった。人とのつながりがそれまでよりずっと希薄になって、いなくなっても気付かれないし、興味を持たれない、ということがわかった、私はそれが無茶苦茶嬉しくて、嬉しくて嬉しくてたまらなかったんだ。わたしは、誰かが誰かと仲良くしているのを見るのは好きだ。ただ人と仲良くできないこちらが、冷たいだとかかわいそうだとか言われたときだけ「黙れ、仲良しチームが!!」と思う。私はみんなに詩を書けなんて言わないのに、どうしてみんなは人と仲良くしろ、というのか。私は人と仲良くできない。上っ面で会話をするが、もっと正直に話してくださいよと言われたら、荷物をまとめて家に帰ってゲームをする。それこそが私の正直な姿なんですよ、そういうことなんですよ!!!わかってほしいような、別にわからんでもいいような。それを心の壁だと言われると困る、こんなにも心を開いて、閉じこもっているというのに。家が好き、家だけが好き、それ以外は知らん、家に世界を入れてくれたらまだ、世界のことちゃんと見るよ。
    
   

故に我あり書店

(この原稿は、ちくまでの連載エッセイの冒頭に、新たに後半部分を書き足したものです)
   

この前、対談をしている時に、苦手な本とか良さがわからない本が、ネットとかSNSとかで好意的に紹介されていたら、本当は違うのに、どうしても世の中全てがそれを勧めているみたいな感覚になって、つらい気持ちになるんじゃないか、っていう話をしていて(私の本が苦手な人は確実にいるっていう話の流れからです)、ああ、やっぱり本屋さんならその横に「私はこっちの方がいい気がする!」って思える本が並んでいるからいいよね、本屋さんはずっとあってほしいな、と思っていた。リコメンドはとても参考になるけれど、リコメンドだけで他が見えない空間と、他の本とともにポップでリコメンドがある本屋さんはやっぱりちょっと違っている。私の本が苦手な人はいて当たり前だし、むしろ、苦手な本があるっていうことは、自然なことだと思っている。芸術や文化の前に立つとき、その人はこれまでの人生全てを抱えて立っていて、だからどうしても嫌なものがあることをおかしいことだとは思わない。だからこそ心から惹かれるものもあるだろうし、それを愛する時間こそが大切なんだと思っている。その人が、その人だからこそ好きになる本。そういう本に出会う機会が作れるから、本屋さんはいいなと思う。

手に取れることの意味というのはある、取れるところにあるもの、というのはそれだけで価値があって、私はそのことを特別に感じる。それは、その本の前にいる「自分」を無視しないからだろう。パソコンやスマホで情報を見るとき、私は私の体を見失うし、情報はどこまでも染み込んでくる。自分というものが無視できるほどにそれらを巨大なものに感じてしまう。でも、本という形で本屋さんにあれば、どんな世界中が讃えている作品も、有名な人の人生を変えた作品も、視点を変えれば「たかが本」だと思えるはずだ。誰が勧めようが人気があろうが、本は本以下にも以上にもならない。自分が好きだったり大切に思う本と、同じ大きさであって、存在感であって、なにより、読む人がいなければ、開かなければ、その本が本当の意味で存在することはないのだということを肌で思い知る。書店で、その本の前に立つまで、私の世界の中ではその本は存在していなかった、という確かさがある。「私」が搔き消えることがなく、いつも私を中心にして本があるのだということが証明され続けている。

本を前にしたとき、作品を前にしたとき、自分は、それまでの人生、時間、思考全てを抱えて、作品と向き合っていて、だからその作品と私の世界の中では、私がどう思うかが全てなんだ。どうしても好きになれない作品があったとき、どうしたらいいか、どうしても受け入れられない単語や表現がある作品を、好きになるにはどうしたらいいのか、という話が、冒頭の対談の中であった。好きにならなくていいと思う。そんな必要はない。どんなに世の中で受け入れられている作品も、友達が大切にしている作品も、好きでないならそのままでいい。私は私の作品を好きでない人に、好きになって欲しいとは思わない。その人にとって大切な作品があるはずで、好きな本があるはずで、ただそれをどこまでも大切にしていて欲しいと思う。
書店はいつもあなたは選ぶ側なんだということを教えてくれる。そういう意味で書店はとても面白い。こんなに本はたくさんあるのに、どこまでも自分が選ぶ側なんだ。こんな存在の認め方があるんだな、と思った。私はどんな本を読むかでその人の人柄とかセンスがわかる、みたいな考え方があまり好きではなくて、その人の本質のようなものに深く迫るのも浅く撫でるのも、いいじゃないか、その深度でさえも、読む人がそれぞれ選ぶことだと思うから。ただその人が選ぶ瞬間を待ち、自分だけがどの本に注目するかを決められる、という、その瞬間こそ、私は人の存在を包んでいると感じます。センスも趣味も人柄も、他人が勝手にいうことですね。あなたが、あなたであることをあなただけは疑わずにいる。書店はだからとても、静かなのだと思います。



   
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インターネット蕁麻疹

 

書くことは孤立することなのだと思っていたのに、いつの間にか孤独なことだ、ということになり、孤独は遠くの誰かと共振し合うように誤解をし、それらは何かを埋めていくように思えて、本当は何も埋めてなどおらず、そのことに気づくことができないと、空気を読むことが書くことであるかのような錯覚に陥る。

孤独とはつながりを求める理由なんかではなくて、世界を拒絶するための理由にしかなりえない、あなたたちのことが嫌いで仕方がない、と言うために必要なものなのだ。正当な理由で他者をすべて否定することはできないし、それができると思い込むなら、そのとき自分はただ暴力を振るいたいだけだと思う。そうではなく、すべてにおいてうんざりする、嫌いで仕方がないと思うその自分を、軌道修正しようとする「まともさ」を殺さなくちゃいけない、そんなのは本当は「まとも」ではない、空気を読めばいいんだろって考えるような軽薄さだ。世界中の人だってどこかでは他者にうんざりしていてわたしのことが理不尽なほど嫌いかもしれない、ということを許さないような「まとも」を信じるなんて馬鹿げている。わたしは、空気を読みたくない、絶対に読みたくないし、嫌われたいとか好かれたいとかそんな発想もしたくない。人の視線が自分の内側にまで存在し得るという考え方がまず自分を不自由にするし、それを許さない空気は無理だ無理。ここ最近、ずっと蕁麻疹が出ている、これが蕁麻疹であることに最近やっと気づいた、自分が何に圧迫されているのか全くわからないが、ここに書くことでまるで今の空気にストレスを受けているようにも見える。

 

zoom飲み会の話を聞いたとき気持ち悪いなと思った、友達がいないことに改めて気づくことが多かった、みんな寂しいというけれど寂しそうに全然見えなかった、寂しいという言葉がコミュニケーションの一部として発生するようになったからだろう、寂しいと言うことに意味があって価値がある時期なんだ、とおもう、ネットを見て、何も書けなくなる瞬間にこそ孤立が現れて、そんなことになるならもう、SNSなんて滅びろよ、と思ったのだった。

絆や繋がりに対する気持ちの悪さは昔からあったし、それは世界における建前であって、建前を語ることが自分自身のためにも必要だ、という人は多くいるし、わたしはそのことまで嫌だったわけではなかった。ただその建前と自己の間にあるものに苦しんでいるのではないかと思って、そこで出る言葉は「寂しい」であったかもしれないが、寂しいは誰かに会いたいという意味ではなかったから。今は全くそんなことはありませんね。会いたくて仕方がない、物理的に不可能になった時そういう意味での寂しさばかりがネットに現れるのだなあと思う。なぜなら発信が解決につながるから、だから発信に必然性がありそれらは優先されていく。発信しても無駄な気持ちや考えは発信されなくなるがそれは不健康なことだと思う。


共有される、共感されるような寂しさや怒りしか、この場所にはもはや存在できなくなってしまったのかな。生活における苦しさや痛みの発露は、誰かに励まされたり共感されることが必須であるように錯覚をする。それは仕方がないことだ、この危機的状況において、助けを求める人の声を、助けたい人が聞き取れるというのは、インターネットの今必要とされている側面なのだと思う。わたしも気づけて良かったと思うことは多々あった、助けたい人はいるし、助けられるのだからインターネットは捨てたものじゃない。ただ、誰も助けたくないような、くだらないとしか思わないような、でも当人にとっては叫ばずにはいられない痛みや苦しみが、本当に身を潜めてしまっていると感じる。他人にとっては大したことのない「今言うべきではない」しんどさや苛立ちが、減るはずもないのに見えなくなっていると感じる。他者が聞いてやりたいと思うか、助けてやりたいと思うか、なんてことがその気持ちが存在していいかを決めるわけもなく、むしろ、その気持ちが垂れ流せるだけで救われることがあるはず。それさえ今許されないとしたら、その人たちは今ずっと「寂しい」のではないか? 「書く」ことより、「書けない」ことの方が今はずっと孤立している。

 

わたしは、理由があって怒らなくてはならないタイミングで怒るのが嫌いだ、それはやらなくてはならないことで、出陣でしかないからだ。わたしがわたしでなくても、怒るはずのことだけれど、わたしの身の上に起こったから、わたしが立ち上がらなければならない、という類のものだからだ。それらは絶対にやらなくてはならないし、やるけど、むかつくしやるけど、でもわたしはもっと理不尽で矮小な人間だったはずだし、そこに火薬ぶちこんで爆撃させなきゃ生きてないだろ?と思うのに、怒らなければならないことが多すぎて時間が足りなくなる。そういうつらさに消耗される。インターネットを見ていると、そうやって周りの人は追われていると感じる、周囲がとてつもないスピードで正しく誠実になっていく、そうせざるをえない状況に追い詰められている。そんなふうに思うのはわたしだけかもしれない、他の人は理不尽なことなんて身勝手なことなんて、頭に過ぎりもしないのかもしれないが、インターネットが、そして、何よりそうならざるを得ない状況が、個人が個人として存在することを妨げていると今は思う。

どうしようもなく誰のことも嫌いだと思う時間が増えたし、それは新たに生まれた感情ではなくて、前からあったけど行き場がなくなってきているということだろう。こういう時に人間性が出るよね、という言葉をテレビで聞いたけれど、自分の矮小な人間性が、どこにも抜けていかなくて、ひたすら手元に溢れ続けることに耐えられなくなる人はきっといる。インターネット、正常に戻ってくれ、正常にくだらなさを垂れ流してくれ、などと願うのもまた違うが、今が「まとも」なわけではない、ということは絶対に、絶対に言いたいと思った。

       

     

 

 

 

大丈夫、嫌いだよ。

誰のことも嫌いだな、と思うことは時々あるし、そういう日のために私は昔誰もいない図書室に立ち尽くしていたのだと思う。誰のことも嫌いだけど、誰も私のことを知らないと、本に囲まれるとよくわかる。百年以上前の本、海外の本、死者の本。嫌いだからって焦らなかった、私には私しか結局はいないから。
嫌いな気持ちに対してどれくらい「いいんだろうか」と不安に思うのかが、世の中的な、精神の成熟度を表すのかなと最近は思う。でも、嫌いだからって攻撃しようとは思わないし、蹲って「嫌いなんだよごめんね」と独り言言うような感じだから、私はずっと焦らずにここまできたし、これからもこのままがいい。
   
別にこんなことを書いてどうしたいんだろうと思う、愛が生活を満たすことや愛で人生をどうこうするという話を聞いていると時々とてもくだらないと感じて、何を当たり前な事を言っているんだろう、と思う。だいたい人はほとんどが当たり前のことしか言わない、あとは狂ったこと。当たり前でも狂ってもないことを言う人がいないと感じるとき、退屈で頭を掻き毟りたくなる、ごめん、嘘だよ、世界は楽しいね。愛を貶すつもりはないし、うん愛しましょうねと思うけれど、いつまでその話をするんですか?まさかそれで全てが済むと思っているの?愛が貫くのは個人の生活だけだ、個人の生活だけではこの世界が成り立たない、私の人生すら成り立たない、都合よく人生を切り抜いて、愛に似合うようにすることを私は好まない、理由もなく誰も彼もが嫌いなとき、愛は不足しているわけではなく、意味をなさなくなっている。愛しているのは当然だ、別に死なせたくはないし、良い人生を全ての人が歩めば良いと思うよ、嫌いで仕方がないけれど。私が嫌うことはあなた方には関係のないことだし私は何も阻まない、どうぞ幸せになってくれ。愛の話ではないんだ、ということにいつまでも気づかないふりをして、人間は退屈になるのだろうか、老いていくのだろうか、美しい日々になるのだろうか。つまんなそーだな、と、どうしても思う。全ての人が嫌いな夜は。

「銀河の死なない子供たちへ」下巻

施川ユウキさんの「銀河の死なない子供たちへ」下巻に、帯コメントを書かせていただきました。

きみは、どうせ死ぬのに、
どうして、誰かと共に生きるの。
愛でも希望でも諦めでもなく、
そこに「勇気」という答えをくれた、この作品は宝物です。

私は帯に言葉を寄せる時、特に漫画の場合は、言葉でいろんなことを書き綴ってから、最終的に残ったものをコメントにすることにしていて、今回は、「銀河の死なない子供たち」を読んで、コメントができるまでに考えていたことを、こうしてブログに残そうと思う。なんか新しい。気がしないでもないがたぶん気のせい。当たり前のようにネタバレがあります&めちゃくちゃおもしろいから先に本を読んだ方がいいと思う。そうじゃないともったいないです!!!
   
以下、今回はメモ的なものなので断片的だよ。
    
    
作品の冒頭、「はじめに言葉ありき。宇宙が終わる最期の瞬間、そこにあるのも言葉だけなの」というセリフがある。言葉だけが永遠で、世界が終わったとしても、誰もいなくなったとしても、言葉だけは残るのだろうと。言葉を発する存在の死は、だから永遠に、生き残ったものの心に突き刺さる。永遠に生きていく体をもつことができても、十数年しか共にいなかった人の存在を忘れることはできない。
(この物語は、不死身の体を持つ子供「π」と「マッキ」、それから二人を見守る「ママ」の物語だ。地球上には動物はいるが、人間は見当たらず、文明の痕跡だけが残っている。ママには人間がいた頃の記憶が残っているが、「π」と「マッキ」にはそんな記憶はなく、人間というものを目にしたこともなかった。そんな二人の前に、ある日、宇宙服をきた女性が現れる。彼女は一人の女の子「ミラ」を産み落としすぐに死んでしまった。そうして、二人には赤ん坊のミラだけが残されたのだ。ミラという「あっという間に死んでしまう人間」とのはじめての交流が、そうして始まる。そうして、きっと、あっという間に終わる。ママはふたりに大きな悲しみが訪れることを恐れ、体を病んだ「ミラ」に不死身にならないかと提案をした。けれど、「ミラ」は、πは、そんなに弱くない、と答えたのだ)
  
生きる限り、何度も別れは訪れる。その別れは孤独を呼ぶ。たとえそばに誰かがいたとしても、人は本当の意味で孤独から逃れることは、決してない。生きる限り、孤独はかならずそこにある。
だから家族を、人は作るのだろう。孤独を打ち消すためではなく、孤独に生きる勇気を得るために。死の際、ミラはπにもう自分は死ぬであろうことを伝えた。「私は人間なの。π。だから…だから私死ぬの。ごめんね」別れの、挨拶。恐れても、不安でも、死にたくなどなくても、それでもやってくる死の淵で、ミラはπに別れを伝える。「ミラちゃんはとっても勇気があるね、えらいね」πもその言葉をしっかりと受け止めていた。それは、二人が家族だったから。ミラは死にたくなどない。πはミラを失いたくない。それでも、別れを迎える勇気が、二人にはあった。孤独を埋め合うための関係ではなく、自らの孤独を、相手の孤独を尊重しながら、共に生きていくことができたから。二人は、確かに「家族」だった。
    
  
ママについて。
人類が地球から出て行くことを知り、たった一人で地球に残ることを恐れ、死にかけの子供(πとマッキ)に永遠の命を与えたママ。ママにとってそれは絶対的な「罪」だった。子供達は、ママがいなければもう死んでいたのだし、決して罪とは言い切れないけれど、不死身によって苦しんできたママには耐えきれないものだった。ママの孤独は、最初、永遠に一人で生きるというそのことの孤独だったと思う。その孤独を思いやる人もおらず、なにより、同じ時間軸で過ごす人もいない、孤独が、誰の目にも映らずにいた。けれど、今はマッキがいて、πがいて、ふたりはママの家族だった。ふたりはママの不死を知っていて、ママの不死とともにありつづけることもできる(そしてだからこそ罪の意識は膨らんだのだと思う)。ママの孤独はそうして、次第に形を変えていった。ふたりは、ママをおいて、いつかどこかにいってしまうかもしれない。たとえ場所は変わらなくても、命に触れ、生きること、そして死んでいく生命に憧れ、自分の今のありかたに疑問を抱くかもしれない。そうして心が離れていくかもしれないし、永遠の命を与えた自分を、恨むかもしれない。そうした予感が、今のママを孤独にしていた。けれど、だからこそ、ママがふたりを不死身にしてしまったのだと告白した時、マッキとπはやっと、ママの孤独に寄り添うことができたのだと思う。やっと、直視することができた。ママの孤独は、もう、「誰も知らない」ものではなかった。3人は、そうして「家族」になったのだろう。
最終回でのマッキの選択は、その経緯によって生まれたものだと思う。これまでと変わらないように見えて、けれど、全く違っている。ママによって決められた「日常」ではなく、マッキ自身がその日々を選ぶ。ママの孤独を、見つめることができたから。
   
   
ミラについて。
死んだら海に流してくれと言おうとしていたミラは、最後の最後で、母親のお墓に行くことをのぞんだ。顔も知らない母親。母親が、自分を産み、死んだという場所を、彼女は訪れることを望んだ。生きることはどこまでも孤独だ。それなら、死はどうなのだろう。生き物は死んだら星になる、とπとマッキが語り合うシーンがある、そうだとしたら、もしもそうだとしたなら、みな、ともにいることができる。もう永遠に別れなど来ない場所で、ともに存在し続ける。そうした安らかさを、死に感じてしまうことは少なからずあるだろう。そんな予感が、ミラに墓参りを選ばせたのではないか。たとえ顔を知らない母親でも、死によって「ともにいる」ことができるのかもしれない。生きていく「家族」とはそれはまったくちがうものだ。混ざり合い、溶け合い、そうして不変のもの。永遠の静かさ。安らぎ。季節も変わってはいけない、言葉もかわさず、新たな喜びも驚きもない。彼女は、決して、生きてきた時間に不満があったわけではない。彼女は最後まで、「死にたくはない」。けれど生きる時間に限りがあり、そうして、共にいた人たちを置き去りにしてしまうという孤独。別れがやってくるという不安は、あるだろう。そうした孤独から解放される時。彼女は、ずっと自分を待っていたであろう人のそばに行こうと決めた。それは、きっと、πが人として生き、人として死ぬことを望んだことと同じだろう。πは、永遠に生きるというその宿命に打ち負けたのではない。死ぬことはやっぱり恐怖でもある。それでも、ミラがいた。マッキがいた。ママがいた。彼女には家族がいた。だから、そこに立ち向かえるんだ。
ミラに出会う前、πは、死ぬことのない自分、命を繋いでいく必要のない自分を、仲間はずれにされたと捉えていた。それはπにとっての孤独だったのだと思う。けれど、すぐに死んでしまうかもしれない幼いミラを気遣うことで、死の恐怖、命の儚さを思い知ることとなった。だからこそ、孤独であるということから逃れるためではなく、自らの孤独のために、彼女は立ち向かっていく。これは、勇気の物語なのだと思う。生きていくこと、死んでいくこと、そのことに対してのまっすぐな勇気は、命そのもののまぶしさにつながっていく。たとえ不死身でない私たちにとっても、それは見覚えのあるものだ。きっと、ずっと、憧れてきたものだ。
   
  
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ハートネットTV「ぼくの日記帳」

夏休みを迎えて、少しだけ呼吸が楽になった、それでも、その時間はいつか終わってしまうのだ。痛みの存在はこんなにもよくわかるのに、どうして、それに対する言葉や行動は、なかなか見つからないのだろう。NHK「ハートネットTV」では、今日から「ぼくの日記帳」という投稿サイトが始まりました。これまで誰にも言えなかった、言ってはいけないと思っていた、もしくは、話しても誰もわかってくれない気がして蓋をしていた感情を、ゆっくり自分のペースで言葉にしていける場所です。私はその1ページ目の言葉を書かせていただきました。また、その言葉を書くにあたり考えていたことを、今日放送されたハートネットTVにて、コメントとして寄せたので、以下に転載します。
  
  
私は十代のころ、思いつくままに日記を書いていました。インターネット上で、現実の知り合いには誰も気づかれない場所で。誰かにわかってほしいとか、誰かに慰めてほしいとか、そういうことではなくて、ただ思いつくままに書いて、それが心地よかったのです。自分がこんなにもたくさん言葉を胸にいだいていたのだということを、書き始めてから知りました。それまで、思いもしなかったことを書いたこともあるし、そうして未知の自分に言葉ごしに会うことが嬉しかった。
教室ではつい、友達の意見に同調してしまう、嫌だと思うこともなんとなく受け入れてしまって、次第に嫌だと思えなくなる、自分の一部が死んでしまったような気がしていました。他人に「間違っている」とか「正しくない」とか言われるのが怖くて、自分の味方を増やせるように、正しい発言ができるように、言葉を選び続けていました。うまく言葉にできない、正しくはないかもしれない、でも私にはとても大切だった曖昧な気持ちを、そうやって全部捨ててきたのです。私は、自分がただ外面をよくしているつもりでいても、それが内側にまで染み込んで、もう私が私でなくなってきていることに気づいていました。それが何より恐ろしかった。でも、教室でそれをやめることはできなかった。だから私は、書くという行為で、私そのものの言葉が顔を出した時、すごく安心をしました。私の感性は、これで生き延びることができると思ったのです。
だれにも見られない場所で、評価とか正しさとか気にせずに、書けたことが何よりよかった。みんなに合わせて生きていくと、どうしても苦しくなる、辻褄が合わなくなる。自分が自分ではなくなって、処理しきれなくなる気がしていた。今回、このお話をいただいた時、私はそうした苦しかった十代の頃を思い出していました。言葉を書くならば、誰のためでもなく、もやもやとしていてもいいから、わかりづらくてもいいから、そして、身勝手でも、間違っていてもいいから、自分の中にある自分だけの気持ちを書いてくれたら、と思いました。あなたの感性を、守り抜いてほしい。私はそうした言葉が何よりも、美しいものだと思っています。そうした願いを込めて、今回の言葉を書きました。
  
  
「ぼくの日記帳」はこちらから見ることができます。
https://www.nhk.or.jp/heart-net/831yoru/
また、私の書いた1ページ目はこちらです。
https://www.nhk.or.jp/heart-net/831yoru/diary/diary001.html