朝マック詩人

‪最近出たBRUTUS「最高の朝食」特集にエッセイを書いているんです。「最高とか言われても私に書けるのは朝マックぐらいなんですけど…」って言ったら「むしろそういうのがいいんです!」って言われたので朝マックについて書きました。そういうのがいいんや!と面白かったです。朝という爽やかビームを如何に破壊するかで私の一日は始まるのです…。(詳しくは本誌を読んでください)(以下は今思ったことです)
   
食べ物に最高ってものがあるのかはわからない。ただ私は朝マックというものしか受け付けない朝があり、その気持ちは絶対に守ってやりたいと思っている。食べ物をおいしいと思うかどうか、はある程度慣れ親しんでしまうと、少しだけ開いた扉は開けずにはおれない、みたいなそういう「すこしのずれのような気持ち悪さを整えたい」という欲求が鍵となると思うんですよね。食べたい時に食べるものほど、美味しいものはない。本当は、食べてどんな味がするかより、「食べたい」と猛烈に思い出された時に、食べ物という体験は色鮮やかなものになるのです。なぜ、私はこんな話で真剣なんだろう。思い出される食べ物は幸せであり、思い出されるときに味が完全に口の中に再現され、それでも求められるとき、体験としてはすべて完結しているのだが、お決まりの捨て台詞のように実食が求められる。わたしはジャンクフードが好きだが、それはこの「異様に食べたくなる」という部分が強烈であるからだと思う。実食の瞬間が、「わかりきっている」のに、パワフルで、「いつもと同じ」なのに、最新情報にアップデートされる感触があるからだ。非現実的なはずのスパイスやしょっぱさが、なぜか何よりも生々しいものとして迫ってくる。ジャンク!ジャンク!ジャンク!丁寧に、生きているつもりだ。それはこのような感性の反応に忠実でいるということで、わたしは食べたいと思ったとき朝マックを食べる自分が、どんなときより詩人だと思うね。通常はソーセージエッグマフィンがいいんですけど、ストレスが限界に達するとマックグリドルになる。このエッセイはソーセージエッグマフィンについてです。(マックグリドルは前別の本で書いた)よかったら読んでみてください。

12年前に書いた原稿

このエッセイは2008年10月に福音館書店の『あのとき、この本』に寄稿した原稿です。来週、初の絵本が発売になることもあり、久しぶりに再読しました。良かったら読んでみてください。


愛情のアルバム  最果タヒ

 私はいまだに絵本の教育的役割が理解できていない。むしろあのお話はいったい何がしたかったのだろう、と思うことのほうが多い。本屋で催される絵本フェアで子供と肩を並べ、新作を読むような私にとって、絵本はただたんに絵のついている素敵な本でしかないのだろう。だから「あのとき、この本」のお話をいただいたときは、とても困惑したものだった。
 いったい何がしたかったのだろう、なんて思った一冊に、私が最も大切にしている『しろくまちゃんのほっとけーき』がある。ただしろくまちゃんが友達とほっとけーきを作るだけのお話だ。異世界の冒険でも、王子様が出てくるロマンスでもない。けれど私は高校生のころ、その本が部屋から無くなっているのに気付き泣きながら探し回ったことがある。大して読み返すこともなかったのにと、その狼狽振りに私自身びっくりした。そこまでしろくまちゃんが好きだったのだろうか? ほっとけーきが好きだったのだろうか? いや違う。私が好きだったのはその絵本を読んでもらった記憶だった。母のひざにのって読んでもらったあの記憶が、私にとって決して手放したくない存在だったのだ。
 昔の絵本には、幼いころ与えてもらった親からの愛情が詰め込まれているように思える。自分が愛されていたんだな、元気に育て、幸せになぁれと思ってもらえていたんだなとわかるのが年を経てそれを開いたとき。アルバムなんかよりもずっと、それはリアルでわかりやすい。なぜなら幼い子供は写真などに残る視覚的な世界ではなく、もっと深い感覚の世界で生きている。子供のころに親のひざにのせられて、読んでもらった絵本のほうが写真よりもずっとあのころを思い起こさせるのだ。
 私は幼いころ毎夜母のひざに乗せてもらって絵本を一冊読んでもらっていた。母の選ぶ絵本は記憶に残るあたたかさを持つものばかりだったように思える。私にとって絵本というのは、本という存在だけではなく、母からの愛情そのものだった。愛情がはっきりと形あるものとして在り続けてくれることはなんと幸せなことだろうと、今では母に感謝している。



ちなみに絵本刊行に際して、河出書房新社のサイトで今年書いたエッセイは以下です。
http://web.kawade.co.jp/bungei/3645/

絵本『ここは』よろしくお願いいたします。
6/26発売ですー。





感傷が嫌

しんどい、なー、しんどいとなんで全部が全部嫌になるのかな、別に誰もこっちなんて見えてないんだけど、過ぎていく時間も他人も自分を捨てて行ってしまう感覚というか、たぶんしんどくていろいろ手放したところに残る感覚が苛立ちとか不満とかなのかもなー、眠りたいけど世界が嫌いすぎて眠れないんだ。

不快なことはそりゃ大量にあるわけだが、それに対する耐性がだいぶ下がっていて、マジですぐに怒ってしまうし、本当に嫌、よくわからん理屈で悲しくなったり自分の無力さを実感したりして、1日動けなくなったりとか本当に嫌、もちろん怒る自分より不快なことに対しての「嫌」「おかしいぞそれ」もあるし、それがなくなったらおしまいだともおもうが、でもそれとは別で自分の苛々に「もう黙れ、寝させて」という気持ちにもなる。怒り続ける体力もないのに怒り続ける自分の頭の中に、「いい加減にしろ」とそれこそ怒っている、どうして最後に残るのがこういうネガティブな感情なんだろう、そんな体力一ミリもないのに、体力がない時ほど自分を庇うことができない。感情から庇えなくなる、感情と自分は別だ、こういう疲れた時に思い知るけれど、感情に振り回されている側だ、わたしは。わたしは疲れているし疲れているのにより疲れるような気持ちになる。この時に自分はとっさに何か自分を守る行動を取れるんだろうか、たぶん取れないと思う。他人に怒りをぶつけないとか、黙っておくとか、そういうことはまだできるけれど、自分がその怒りに飲まれないようにする、ってなかなかできない。怒りを我慢するのではなく、怒りを止める、なんてできないんじゃないか。

結局喜ばしいものや、アホらしいものをみて、忘れてしまうしかなく、そんな体力がない時、雨が降っていたり、蒸し暑かったり、友達がその日だけ連絡取れなかったり、ゲームで大失敗したり、パケ死したり、そういうのが続いた時、パンクするんじゃないだろうか。一個ずつは大した問題ではなくても、自分の中にある別の、理不尽などうしようもないネガティブな感情を、受け流せなくなったとき、その対象にめちゃめちゃに怒ってしまったり、自分がめちゃめちゃに嫌になったり、やけくそになってしまったり、するのかもしれない。そういうのってバカみたいかな、嘘みたいかな、でもなんか携帯の電波がおかしくなったとき、「全員嫌い」って思ってしまうことはあるし、私はそういうきっかけで自分が躓くのがすごい想像できて、小さな違和感、失敗、圏外が最近めっちゃ怖いんだよな。それをしんどさだと捉えている、自分が、自分のわからなさに怯えているし、強くも賢くもないわ、こっちは、破裂する風船みたいなものを持っている心地です。だから、まともなことを言っている人たちがときどき、すごく怖い、完全に勝手な話なのだけれど。自分の歪んだ目で見たものだけで統一したいと感じる、情報にみえるものが、フラットな絶対的な、ゆらぐはずのないものが、どれもこれも全部怖いのだ。

飽きてOK

‪ずっと書き続ける作家を、読み手がずっと好きでいるのはむしろ難しいことだと思う。だから、好きじゃなくなったとか、昔の方が良かったと言われるのはすごく、すごく自然なことだ。さみしいはさみしいけど。互いに変わっていくし、その方向性まで同じことなんてほとんどないよ。ただ、自分の好みじゃなくなっただけだと思うのに、「最近のテーマは無理してる」とか、「読者に無理に合わせすぎ」とか、こちらが間違っているみたいな言い方をされるのは、なんでなんだろう、って悲しくはなる。わたしは書きたいように書くし、書いたら書いただけ言葉は蓄積されていくから、変化は自然発生的に起きていく。私はその変化に驚かされるのが楽しいから、まだ書き続けている。変わらないなら、新たに書く意味もないし、退屈すぎる。むしろ、作り続ける人間が、過去と変わらなかったらそれは偽りだと思う。好きだと言ってくれていた人たちが「今のはそんなに」っていうのは、そりゃさみしいことだけど、でもむしろ一瞬でも好きだと思ってくれたことを私はすごいことだって感じる。奇跡的な交差だと思っている。他人が書いたものを「いいな」って感じるってすごいことだよ。ありがたいです。そういうときのために、本はあるのかもしれない。その人にとって特別な本だけ、その人の手元に残るなら、それこそが完全だと思うんだよね。もちろん、今の本も読みたいって言ってくれる人もありがたいです。でも、「なんか好きじゃないかも」ってなったときに、気にしないでほしいなと思います。わたしも10代の頃とか、好きだったはずのアーティストとかで、なんかこれ好きじゃないぞってなったとき、すごく無理してしまって、なんとかファンとして振る舞おうとして、自分が悪いような気がしたり、感性が鈍ったのかとか思ったり、いろいろ相手を心配したりしたんですけど。何もかも好きでなくても、最新もすべて好きでなくても、相手の変化を受け入れられなくても、「好き」と思ったときの「好き」は、ずっと永遠です。作品はずっと残り続けるから。そしてその「好き」はわたしにとってずっとずっと嬉しいものです。

わたしは、どうして自分の作品を読んでくれる人がこんなにいるのか、本当はよくわかっていなくて、ありがたいけれど、その人たちがずっと満足するものを書き続けられるかはわからなくて(というか無理だと思ってます)、わたしはわたしが楽しいから書いている、という勝手なところがどうしてもあるから、多分いろんな人がこれから「今のは別に」って言っていくんだろうなと思っています。それと同時に「昔のはそんなにだったけど」って、今の本を手に取る人もいるんだろうし、そういう状況をどちらもありがたいなって思っていたい。読まなくなった人も、これから読む人も、すごく、すごくありがたいです。そして、わたしはずっとわたしなので、これからも頑張って書いていきたいと思っています。

しんどい

学校の授業とかで、差別について学ぶとき、それから日常において差別や偏見について話すとき、「差別をしてはいけない」という視点で語られることがほとんどで、「自分が差別される」ことに対してどうしたらいいのか、話されることは少なかった。あなたは差別されるのだ、不当に、突然、この世界はまだそんななのだ、と学ぶことは極めて少なかった。だから自分が「差別をしない人」になればいいんだと思った、偏見を持たない大人になろうと思った。でも本当はそんなものでは少しも足りない、世界は善人が一人増えたところでどうしようもない状態になっている、なにより、善人になろうが悪人になろうが関係なく、あなたは無数の人間に差別される可能性があるのだ、ここは、そういう世界なんだ。という、そのことが昔のわたしはよくわかっていなかった。

差別はいけない、と話すときに、自分たちを当たり前のように、するかしないかを判断する側においていることは、よく考えればとても想像力のないことで、するかしないかの側から見える差別なんて一面的なもの、すごく楽観的なもの、だと思う。なぜなら差別が「差別」の顔をして現れるのは、「自分自身が差別される瞬間」に決まっているから。自分を差別するかしないかが、他人に不当に決められてしまう、わたしが差別するかしないかを決めれば世界は少しはよくなるはず、という考えも、「誰かが差別されるかどうか」を自分が決めるという歪な状態を、どこかで見逃す行為かもしれない。差別されることについてどうするって怒るしかなくて、いい加減にしろよ!!って言うしかない悲しみしかなくて、そのときに「わたしは差別をしない」なんて、「当たり前だ!!!」しかなくて(でもこれだって別に簡単なことではない)、でもそれ以外にできることってもうマジで「マジかよ」って言うような少なさで、「差別される自分」という像を救える自分がどこにもいない、だから虚しくなる、虚しくなってちゃいけないんですけど、虚しい、虚しいっす。世界頼むよ、ほんとになんでそんなもんがあるの。強くなりたいわけでも、正しくなりたいわけでもないんだよ、自分じゃなくて世界に変わってほしいって思っている。

不自然による不自然のための不自然なコミュニケーション

人に気を使ったり使われたり、顔色を見たり見られたりすることが苦手で、誰に嫌われてもいいし好かれてもそれにそこまで価値を感じていないという態度を他人にいくらでも見せられる人は、自分を貫いてかっこいいなと思うが、誰に嫌われてもいいなら私なら誰にも会わない、と思ってしまうのだった。

無愛想だが失礼でなくて、自然でいつも本心でものを語っていると感じる人間にすごく憧れる。でも私が全て正直になると、家から出ない、人と会わない、電話をとらない、ご飯を食べる、寝る、ゲームする、昼夜逆転、原稿する、で終わる。人とのコミュニケーションは、それ自体がもはや私にとっては不自然だ。人が嫌いとかではないんだけど、人の存在が日常とか生活と地続きというよりはすこし着飾ったものに感じられる。暮らしというよりお出かけであり、特別であり、人と話すのはだから疲れるし、気を使うし、正直や無愛想とかでなく、マナーや親切のレイヤーが自然となっていく。どうしてもそうなってしまう。

そういう自分をダサいと思っていたが、しかし他人に素直な自分を見せること自体が私の「自然」には入っていなくて、他人がいる時点で異空間なのだ、ここで異空間にうまく合わせることでしか動けないのが自分の正直なところ、なのだろう。だから精一杯、「っぽく」振る舞うし、かっこいい自然な人間として生きることはもう諦めている。俺の自然がそうさせてくれない。それだけだ。
‪だから友達はできない。もうほんとできない。できないことは仕方ないとしか思っていない。失礼がないように、ということだけを守って行動するわたしは、目的がない会話が成立しないし、結局仕事関係の会話だけして終わっている。そこに不満はなくて、それなりに生きてしまっているのですよね……。大学で学んだ最も重要なことは、人は簡単に行方知れずになる、ということだった。人とのつながりがそれまでよりずっと希薄になって、いなくなっても気付かれないし、興味を持たれない、ということがわかった、私はそれが無茶苦茶嬉しくて、嬉しくて嬉しくてたまらなかったんだ。わたしは、誰かが誰かと仲良くしているのを見るのは好きだ。ただ人と仲良くできないこちらが、冷たいだとかかわいそうだとか言われたときだけ「黙れ、仲良しチームが!!」と思う。私はみんなに詩を書けなんて言わないのに、どうしてみんなは人と仲良くしろ、というのか。私は人と仲良くできない。上っ面で会話をするが、もっと正直に話してくださいよと言われたら、荷物をまとめて家に帰ってゲームをする。それこそが私の正直な姿なんですよ、そういうことなんですよ!!!わかってほしいような、別にわからんでもいいような。それを心の壁だと言われると困る、こんなにも心を開いて、閉じこもっているというのに。家が好き、家だけが好き、それ以外は知らん、家に世界を入れてくれたらまだ、世界のことちゃんと見るよ。
    
   

故に我あり書店

(この原稿は、ちくまでの連載エッセイの冒頭に、新たに後半部分を書き足したものです)
   

この前、対談をしている時に、苦手な本とか良さがわからない本が、ネットとかSNSとかで好意的に紹介されていたら、本当は違うのに、どうしても世の中全てがそれを勧めているみたいな感覚になって、つらい気持ちになるんじゃないか、っていう話をしていて(私の本が苦手な人は確実にいるっていう話の流れからです)、ああ、やっぱり本屋さんならその横に「私はこっちの方がいい気がする!」って思える本が並んでいるからいいよね、本屋さんはずっとあってほしいな、と思っていた。リコメンドはとても参考になるけれど、リコメンドだけで他が見えない空間と、他の本とともにポップでリコメンドがある本屋さんはやっぱりちょっと違っている。私の本が苦手な人はいて当たり前だし、むしろ、苦手な本があるっていうことは、自然なことだと思っている。芸術や文化の前に立つとき、その人はこれまでの人生全てを抱えて立っていて、だからどうしても嫌なものがあることをおかしいことだとは思わない。だからこそ心から惹かれるものもあるだろうし、それを愛する時間こそが大切なんだと思っている。その人が、その人だからこそ好きになる本。そういう本に出会う機会が作れるから、本屋さんはいいなと思う。

手に取れることの意味というのはある、取れるところにあるもの、というのはそれだけで価値があって、私はそのことを特別に感じる。それは、その本の前にいる「自分」を無視しないからだろう。パソコンやスマホで情報を見るとき、私は私の体を見失うし、情報はどこまでも染み込んでくる。自分というものが無視できるほどにそれらを巨大なものに感じてしまう。でも、本という形で本屋さんにあれば、どんな世界中が讃えている作品も、有名な人の人生を変えた作品も、視点を変えれば「たかが本」だと思えるはずだ。誰が勧めようが人気があろうが、本は本以下にも以上にもならない。自分が好きだったり大切に思う本と、同じ大きさであって、存在感であって、なにより、読む人がいなければ、開かなければ、その本が本当の意味で存在することはないのだということを肌で思い知る。書店で、その本の前に立つまで、私の世界の中ではその本は存在していなかった、という確かさがある。「私」が搔き消えることがなく、いつも私を中心にして本があるのだということが証明され続けている。

本を前にしたとき、作品を前にしたとき、自分は、それまでの人生、時間、思考全てを抱えて、作品と向き合っていて、だからその作品と私の世界の中では、私がどう思うかが全てなんだ。どうしても好きになれない作品があったとき、どうしたらいいか、どうしても受け入れられない単語や表現がある作品を、好きになるにはどうしたらいいのか、という話が、冒頭の対談の中であった。好きにならなくていいと思う。そんな必要はない。どんなに世の中で受け入れられている作品も、友達が大切にしている作品も、好きでないならそのままでいい。私は私の作品を好きでない人に、好きになって欲しいとは思わない。その人にとって大切な作品があるはずで、好きな本があるはずで、ただそれをどこまでも大切にしていて欲しいと思う。
書店はいつもあなたは選ぶ側なんだということを教えてくれる。そういう意味で書店はとても面白い。こんなに本はたくさんあるのに、どこまでも自分が選ぶ側なんだ。こんな存在の認め方があるんだな、と思った。私はどんな本を読むかでその人の人柄とかセンスがわかる、みたいな考え方があまり好きではなくて、その人の本質のようなものに深く迫るのも浅く撫でるのも、いいじゃないか、その深度でさえも、読む人がそれぞれ選ぶことだと思うから。ただその人が選ぶ瞬間を待ち、自分だけがどの本に注目するかを決められる、という、その瞬間こそ、私は人の存在を包んでいると感じます。センスも趣味も人柄も、他人が勝手にいうことですね。あなたが、あなたであることをあなただけは疑わずにいる。書店はだからとても、静かなのだと思います。



   
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