とあるCUTE

昔、作品を「難しいから」という理由で無理矢理性的なものに解釈されたことがあり、うんざりしたことがある。当時私は十代だった。なぜみんな恋愛について歌うのか、音楽番組を見ていて疑問だったころだ。
幼いころから女性という感覚がうすい。女だらけの家庭だったこともあり、自覚するタイミングはなかった。おしゃまになることもなかったし、普通に男の子と喧嘩して泣かせたり泣かされたりしていた。少女マンガは嫌いだったので、恋愛に対する憧れも育たなかったし、そうした重ねあわせから今の私が出来上がっている。なんでみんな、性別について、異性について、そこまで真剣なのか理解しかねる。「幼いからだよ」と言われるし、「考えなければならないよ」と言われるけれど、わからないときはわからないままでいいじゃないかと思う。だいたい、わかってしまったら元には戻れないのだ。なぜ、背伸びを私がしなければならないのだろう。
世界は男女で出来ていると思っている人がたくさんいて、愛が世界を作るのだと言う。それは信じる。母がくれた愛情だとか、そういうものについて、私は絶大な信頼をよせている。けれど、異性について、また自分の性別について、恐怖に思うことはめったにない。それは幸運な生まれだからだよと言われる。社会に出れば思い知るよと言われる。ならば思い知るまでは、幸運のまま見守ってくれないだろうかと私は考える。なぜ知らなければならないのだろう、考えなければならないのだろう、制服がスカートなんだろう。君は女の子で、あいつは男の子なんだよ。それが何? そこに価値を見出すことだけがすべてなの? そこを見分けない人間はくずなの? 間違っているの? 大人(私は年齢は成人しているけれど、そこらの十代のほうがある観点からすればずいぶん大人だ)は幼さを罪のように言う。恥のように言う。私からすれば、そう考える人間のほうがずっと恥ずかしい。