20世紀少年最終章におけるともだちの正体とその効果・救済

映画20世紀少年最終章ぼくらの旗をみた。コミックス20数巻を読み返す気力はないので、覚え間違いもあるだろうが、特に気になった原作との違いについて書きたいと思う。あと最凶に原作と映画のネタバレしています。それでよければ右端の「続きを読む」をクリック。
   
   
物語においてあわせなければならないつじつまがあり、それはたとえば悪は滅ばなければならない、善は勝たなければならない、すべての伏線は終わるまでに回収されなければならない、一つを描写するためには他の描写を犠牲にしなければならない、などさまざまであるが、それがときに物語の質を下げることにもなる。たとえばこの20世紀少年原作の結末はともだちの正体がカツマタくんであったということにかなり批判的意見が生じた。これはそれまでの20世紀少年がもたらした「意外性」から著しくずれたものであり、つじつまはギリギリ合ったものの、読者が期待していた驚きは与えられなかったといえる。けれどそこには発表形態についての作者の優先順位が関わっているのではないかと考えられた。本作品はスピリッツで週刊連載され、それが単行本で販売されているが、この週刊連載と単行本収録という二種類の発表形態において、作者は週刊連載による効果こそを重視したのではないかと思う。単行本、特に発売日に一冊ずつ買いそろえているのではなく、まとめ買いで一気に全巻そろえて読むことについてはこの作品は向いていないとも言えるのかもしれない。週刊連載は一話ごとに読むため、前回の引きによる期待と、次回への引きにたいする動揺がもっとも効果的に作用する。しかいまとめ読みの場合は一気に最終話に向かって読者は読み進めるため、途中でどのような展開があったとしても、それは読者にとってあくまで過程であり、完結こそが重要だと考えられる。作者はその重要性をあえて犠牲にし、次回への引き、驚きに重点を置き、連載で読まれることを前提に作品を作ったのではないか。連載作家としてはこれも一つの正しい形だろう。ただ結果としてそれは最終回の脆弱性を生み、完結に対する読者の大きすぎる期待に押しつぶされてしまった。私はこのことについて批判的には考えていない。結末としてカツマタくんがでてくることは正しかった、というよりそれしかありえなかった。あの話の流れではもはやカツマタくん以外は出すことができなかったし、これこそが物語の限界であると思う。つまり、作者はつじつまをきちんと合わせ、作者としての仕事を果たした。けれどその物語自体が限界に至ってしまい、ただつじつまを合わせただけになってしまったのだ。今回、映画版の最終章をみて思ったことは、終わり方だけを考えれば原作を越えたのではないか、ということ。むしろ映画は原作での無念さを消化するために存在するのではないか、ということだった。
   
まず原作における「ともだちの正体」に関する変動を書いてみる。
  

ともだちはフクベエ なんだってー?!

でもフクベエ死んじゃったよ(オッチョ死亡確認、フクベエだとも確認)

まさかの生き返り!すりかわり?今のともだちは誰だ?!

死んだフクベエの代わりにともだちになったのはフクベエの顔に整形したカツマタくん

  
これが映画になると、
  

ともだち死んじゃったよ

まさかの生き返り!実は死んだのは替え玉でしたー

ともだちは池上?(キリコ証言「偽名かも」)

ともだちはフクベエ

フクベエと思っていた人物は実はカツマタくんだった
(カツマタくんが同窓会の頃からフクベエと名乗っていた)

  
となる。映画ではともだちの死亡時にオッチョが死亡確認をしなかったため、生き返りにはリアリティーがなかったし、また、そのときに正体バレもしなかった。原作では死亡時にはっきりとともだち=フクベエと判明し、死亡確認も行われたため、作品はこのまま終わってしまってもいいほどだったことから物語の収束に対する読者の寂しさが「うわーともだち死んじゃったよー」という作中の一般人の心理と重なり、その後の生き返りがかなり効果的になった。つまり原作では、フクベエ版ともだちが「正体がばれる」「肉体的に死亡」という存在的にも肉体的にも死亡してしまったのにかかわらず、映画ではどちらの条件も満たしていない(死亡確認をしていないため肉体的にも死亡とは言えない)。そのため生き返りの効果が薄まってしまった。だが、それは決して悪い結果だけを残したわけではない。最終章においてともだちが始めから終わりまで同じ人物であった、つまり死ななかったことが、決着を原作よりももっと意味のあるものにしたのも事実だ。ともだちの正体がカツマタくんであった、という点に関しては原作でも映画でも同じではあるが、原作ではフクベエ死亡により途中からすりかわったカツマタくんには、完全なコピーとしての価値しか存在せず、カツマタくん個人の価値はありえなかった、映画では物語のはじめからフクベエという人物は実は存在せず、カツマタくんが小学五年生の時に死んでしまったフクベエの名前を同窓会でかたっていたということになっている。つまりフクベエと思っていた佐々木蔵之介さん扮するともだちそのものがカツマタくんだった。カツマタくんは映画では誰かのコピーではなくオリジナルだったのだ。(ちなみにカツマタくんはキリコには池上と名乗っている。池上は生前のフクベエの悪友であり、カツマタくんの万引き発覚(冤罪)のさいに、彼を死刑呼ばわりした一人である。)カツマタくんはいじめられ死んだことにされたことでみんなの記憶から消えてしまったという認識が強く、同窓会でも名乗り出ることができなかった。周囲が自分をフクベエと呼ぶのでそれに身を任せていた(登場人物はクラスに死んじゃった子がいた、という記憶はあったがそれがカツマタくんだと思っていたため、フクベエが死んだ子供だということは覚えていなかった)のであり、キリコにも自分の名は名乗れず自分をいじめた池上の名を借りた。(ただし同窓会では池上自身が参加しているため偽名を語れず、カツマタくんは誤解さえされなければ自分の名を名乗ることができたのかもしれない。しかしフクベエがすでにともだちとして活動していたことからも、彼は自分で名乗るつもりははじめからなく、「だれだあいつ?」と思われるなら思われるでよし、としていたのかもしれないし、誤解されるつもりでいたのかもしれない。しかしそこまで彼を屈折させていたということ自体が悲劇と言えるだろう。)原作ではフクベエ版ともだちを途中で死なせてしまったこと、そして子供時代の描写があまりに多く、登場人物のほとんどの背景が明らかになってしまったことから、カツマタくんを万引き以外でほとんど登場人物とからませることができず(してしまうと読者にカツマタ=ともだちをさとらせてしまい、過程におけるスリルがなくなるから)、また、カツマタくんをフクベエのコピーとして描写することに徹底したために、まるでカツマタくんには人格がなかった。それは不気味さを越えて無意味さを生み、結末で読者の納得を得ることができなかった。カツマタくんについての情報が少なすぎたのだ。しかし映画においては同窓会で再会したフクベエがまるごとカツマタくんである、という事実が、観客の中でカツマタくんの存在を大きなものにした。映画だけをみた人ならば、カツマタくん云々はなくてもよかったんじゃない?と思うかもしれない。フクベエが犯人でした、フクベエが万引きの罪をかぶせられましたでも映画はすっきり終わったはずだった。いや、むしろ映画だけ見ていた人ならそのほうがいいとすら思ったかもしれない。しかし同窓会でも名乗れない、他人(死者)と勘違いされる、という悲惨さは、どんないじめの描写シーンより、自殺未遂シーンより痛々しく、彼の所在なさを描写している。同窓会で他人に間違われると言うのは…しかも訂正する勇気が根こそぎ奪われている、というのはつらい、たとえカツマタくんが計画のために元から名乗るつもりがなかったとしても。そしてフクベエというのは偽名だった、という事実はカツマタくんを原作とは違いオリジナルな存在(コピーではない)、リアルなものにするためには必要なことだったのだ。そしてカツマタくんは原作読者のために用意されていたとも言えるだろう。原作においてほとんど描写のないカツマタくん、不気味なだけのカツマタくん、彼をリアルでオリジナルな存在にし、そして救済するために。そう、あの試写会では放映されなかった10分のラストシーンを作るために、このキャラクターは再生されたのだと思う。
   
ラストシーン。スタッフロールのあとで流れる、ヴァーチャルアトラクションで大人ケンヂが中学時代に戻り目撃する、カツマタくんと中学生ケンヂのシーン。すばらしかった。カツマタくんが屋上で飛び降り自殺を行おうとした瞬間に、ケンヂのかけたTーREXが校内放送で流れる、という原作にもあるシーンだが、それで死ぬことをためらったカツマタくんは屋上にやってきたケンヂに友達になってくれるかと問う。ケンヂの「友達になってもいいけど、お面取れよ」という言葉にためらい、カツマタくんは立ち去ってしまうのだが、大人のケンヂの助言によってお面をはずし、もう一度ケンヂのところに戻っていくのだ。元々私は唐沢さんや豊川さんがかなり好きで、ほかのキャストにも豪華すぎるやろー!と叫んだほどキャストが好みだったのだけれど、神木隆之介くん演じるカツマタくんこそが映画20世紀少年のベストアクトだったと断言できる(佐々木さんのカミングアウト後の大人カツマタくんもかなりよかった)。ともだちになる前のカツマタくんはあまりにも切なく、小学生時代・大人時代のカツマタくんの不気味さが抜けている。このことに関しては批判的な意見があるかもしれないが、T−REXを耳にして(ケンヂによって)世界が変わったと言うカツマタくん、という設定であれば不気味さが抜けて切なさだけが満ちた彼の演技こそが正解であろう。彼は音楽で一瞬浄化されたのだ。ヴァーチャルアトラクションを出た現実世界ではケンヂにお面をとるように言われ逃げてしまったカツマタくんは、屋上に戻ることなくまたふさぎ込んでしまいケンヂの友達にはなれず、屈折した大人、つまりともだちになってしまう。しかしヴァーチャルアトラクションの世界では大人ケンヂの助言によってお面をとり、屋上に戻ったカツマタくんはケンヂと友達になることができ、ともだちにもならずに済んだに違いない。友達になり、ともだちにならなかった。現実では、友達になれず、ともだちになった。このシーンは原作では存在しない救済のシーンだった。原作でのヴァーチャルアトラクションでは大人ケンヂの助言により小学生ケンヂが万引きしたことを謝罪している(これは映画にもあるシーン)。しかし大人ケンヂは中学生カツマタくんには「お前カツマタくんだろ」としか声をかけておらず、カツマタくんは屋上に戻らずケンヂの友達になれなかった。償いは行われても、カツマタくんの救済は行われなかったのだ。そのためにカツマタくんは最後まで人格がない、ただのコピーとしての不気味な存在であり続け、不気味さを越えて無意味さを生んでしまった。(ただし、これはコピーというキーワードを際立たせるために、あえて作者が行った描写であるとも思う。これもはじめに書いたつじつまの弊害だろう。コピーという描写を作者は選び、カツマタくんのリアリティーを犠牲にしたのだ。)この問題を解決した最終シーンは神木くんの演技力によって純粋な青春作品としてもすばらしいものになり、原作読者の心に残っていたカツマタくんの不憫さ、切なさが浄化されていくように思えた。このシーンを描くためにあえて賛否両論あるカツマタくんを映画にも登場させたのかもしれないし、その心意気は粋ってやつだ。そしてそれが成功している。もうね、あのシーンだけ切り取ってでも放送してもらいたいと思いました。何十回と見たい。
   
ただしこうしたことが原作で不可能だったことは納得しなければならないな、と思う。コピーとしての描写に徹底したことで、カツマタくんをあえて救わなかった、という作者の選択も一つとしてありえただろう。映画と同じ選択を原作でも行っていたのなら、あそこまでスリルのある連載にはならなかったのではないかと思う。この終わりかたを原作でもやればよかったのに、というのは無茶なのだ。映画ではカツマタくんという人間をリアルなものにしていたからこそ、最終シーンでカツマタくんを救済してもそこに切なさを観客を感じることができた。原作ではフクベエのコピーでしかなかったカツマタくんに救済のシーンを与えても、もともとの人物に人間味がないのだから無意味というものだ。そしてカツマタくんに人間味を与えておくには作品が情報で詰まりすぎており、その隙がない。もし少しでもカツマタくんを過去編に多く存在させ、フクベエ版ともだち時代にも伏線を張っていたならばよかったのかもしれないが、それでは20世紀少年という作品のスリル、得体の知れなさを減らしてしまう。そんなことになったら映画化自体されなかったのではないか? 過程のスリルをとるか、結末の爽快さをとるか。原作は前者で、映画は後者だった。そして前者が先に世に出たからこそ、映画は生まれたのだと思う。前者が先だったからヒットしたのだ。だからこそ原作読者には映画を観ることをすすめるし、映画を観た人には原作を読むことをすすめる。マンガの映画化には賛否両論があるが20世紀少年の場合は両者が足りないところを埋め合うものになったので結果としてよかったのではないかと思う。そりゃあ両者のいいとこ取りが一つの作品でできたらもっといいんだろうけど、そんなことができたら歴史に残る傑作が生まれますよ。そんなのさーわたしだって作りたいよ!
   
あとエンケンがでてたんですよ。遠藤賢司さん。神。雪山のシーンで、猟師として登場していました。短い時間でしたけれど一言二言に重みがあって、エンケンを知らない人もおおっ誰だこの人と思ったんじゃないかと思います。渋かっこよすぎ。ああいうふうに年をとりたいものです。
   
ただし映画については「それは違うだろ」と思う改変もあり、かなり思うところもあるのですが、個人的なこだわりの範疇を出ないので口をふさぎます。娯楽映画なんだしゆるりと楽しむのが一番だと思いました。