2600年を超えて

尊敬する人物の名前がカタカナで長すぎるために覚えられない。よっていつだって無言。だいたいその人のことが尊敬できるのではなくその人の実績が尊敬できるのである。人自体なんてどうだっていいのだ。しかしその人を尊敬できるのはあまりに昔の人であるから、人柄とか顔とか逸話とかがほとんど残っておらず、わずらわしい情報をまとっていないからというのもあるのかもしれない。とても純粋に実績だけが残っており、まさに圧倒的に綺麗な歴史となった人だろう。歴史上の人物、と言うならばこれぐらい正しく情報が淘汰され歴史となっていないければならない。しかしそのこと自体は、この人の功績とは言えないな、ただ古すぎただけだ。
  
しかし私は彼がした発見こそが人類史上最も美しい発見であると思っている。
   
会話をしたいと思ったことがない。ので、いつも話が続かないと言われるがそれはアイス屋で八宝菜を注文するようなものではないだろうかと思っている。話がすぐに終わるので初対面のときはこわかったとのちのちに告げられると、いやまったく人は人と触れ合うことが美徳である、そう出来ない人は寂しいしだれもがそうしたいはずだと信じている心の純粋さに感心する。しかしコミュニケーション崇拝は自己完結にしていただきたいとも思う。人肌が恋しいという感覚がよくわからない、家族は大切だし友人も大切だし、しかし彼らと交流することが絶対的に重要な行為とは思っていない。友人と一ヶ月会わないメールもしない電話もしないなんていうのは普通にあることであるし、かといって不安になるわけもない。携帯電話も電話もないころはそうした関係性が当然だったのではないのか? 心の交流に空腹の獣のように飢えているわけでもないのだから、ふとしたときに会話があればそれで関係というものは成立する。今なにを食べている、だとか今なにを読んでいる、だとか、今だれのことを考えている、とかそれほど興味がある情報だろうか? もちろん会話を全否定するつもりはないし、たとえば相手を楽しませたい、喜ばせたい、という感情はとてもすばらしく、そこから生み出され用意される会話は他者に提出されるべく整形された情報であり、もはや一つの作品である。しかしそうではない単なる情報にすら向けられる関心は異常と言えるほど強い。
書物などを読んでいると著者近影や経歴が不気味に目立っていて怖い。音楽を語る人が人物の伝説を語りだす意味がわからない。書物がすべてであるのに、なぜその裏側に立っている人間のことを知りたがるのだろう。音楽がすべてであるのに、なぜその裏側に立つ人の噂話を知りたがるのだろう。ゴシップから始まる映画紹介とはなんだろうか? そうしたものに需要があるという事実とその原因も理解できる、しかしそれがすべてであるわけではないと信じたい。そうでないと創作とは自己の存在を知らせるための道具でしかないということになってしまう。そして不安に思うことはないのかもしれない、私が尊敬する人物のように、何千年もの時によって情報を風化させることが出来れば、自然と人という存在自体は消え、実績だけが残るのかもしれない。しかし現代の情報の残し方では、そうしたことすらも不可能かもしれないのだ。実績も人も、すべてが消失するか、すべてが残るかのどちらか。私は人の残すものにこそ、尊敬や愛情を注ぐべきだと思っているし、歴史、時間とはそれを淘汰する一つのフィルターであると考えている。幼い頃からそうして生きてきたのだから、自分勝手に願うことが許されるならば、少しずつ人に対する純粋な「興味」が人の中から薄れていけばいいと少しばかり思う。けれどそれが無理だとも、よーくわかっている。