悪者にもなれる

まどかマギカ(あにめ)がこわすぎてときめく。かわいければかわいいほどこわいよなぁ。個人的にはまだ実際には何も起きていないときの不気味感がすきです。絵本にあるこわさだよ。ああいうのが一番、底に響く。子供時代の恐怖が直結しているから、魔法少女みたいな題材でやるにはこういうかわいいこわいが一番なんだろうね。なんかチェコみたいだと思った。チェコの児童絵本的な。海のむこうの児童向けは基本怖い。残酷なオチとかざんざん出てくる。ムーミンも原作の絵こわい。わたしはあにめのムーミンですら無理でした。こわがって見ませんでした。日本昔話もいい勝負してたけど。日本昔話もなかなか救われない話が多かったなあ。
   
たとえば、失敗でわるいことをしてしまった(とっさにこどもの熊を撃ってしまったとか)猟師がさ、救われないで孤独に死んでいったりとか、そのまきぞえに犬も死んだりとか、そう言う話があるわけです。猟師はなんてかわいそうなことをしたんだとか、ちゃんと後悔しているわけだけれど、後悔なんて無意味で、罪は罪として裁かれる。一緒にいた犬も同罪。そうやって、「報いを受けます、だから間違いは決して犯してはいけません、間違いを犯した人は全世界がその人のことを嫌い、罰を下されるのが当然だと思うでしょう」という教え方は、子供に「罪を犯すことはけっしてしてはいけないんだ」と思う以上の恐怖心を与えるのではないかと思う。許されない、ということを、だれよりも恐れるのは、愛情がなければ生きていけないという本能がある子供たちだ。かれらが一番、許してもらえない、ということをおびえる。だからこそ、その点だけは決して、触れてはいけないんじゃないか、と普通なら思う。そこに触れてしまうことはこどもにとって脅迫にしかならないんじゃないか? 確かにそこに触れれば子供は恐怖するけれど、そこだけは、決して触れちゃいけない。愛情を天秤にかけるな。罪は罪だということよりも、きみへの愛情が完全に世界から消えてしまうことはない、きみがやさしさを忘れなければどこかにきみを許してくれる人はいる、どんなときも、って、教えてあげることがまず大事じゃないのか?
   
などと、善意としては思いがちだけれど、
   
こうした絵本に関して言えるのは、確信犯だろう、ということだ。愛情を与えるのは絵本ではなく、家族や、友人たちだという認識があるからこうした本は存在していて、子供がすでに幸せで、ゆるぎない愛情の中にいるのだという前提がそこにはあるんだと思う。だから絵本の中から悪意がにおう。つねに善意がこどもを育てるわけではないし、あえて悪者として存在する絵本はある。それらがないと、意味がないこともわかる。絵本はつねに夢や希望を与えるためのものではなく、こどもにとって必要なものをすべてそろえている。わたしはむしろ、そうした絵本が存在すること、恐ろしいからと言って、子供から遠ざけようとしない慣習こそがすばらしいと思っているし、子供時代にあれらを読んで、「嫌い」ってなっていたことは、作り手の思惑通りだったんだなと思っている。本当に怖かったし、悪意があった、だから嫌いだった。大嫌いだった。でもそれははじめから嫌われるためにあった物語だった。