あなたのために作ることはないけれど、あなたのおかげで作れています。

言葉というのは基本的に、色や音や形や、そうしたものと一緒に存在している。町を見ても、言葉だけが単独で存在することはめったになく、何かとともにある姿が自然なのであって、だから、言葉を扱う仕事をする私が、デザインとかWEBとか、そういうものひっくるめた言葉のありかたをプランニングしようとするのは極めて自然なことだと思う。
言葉が、言葉だけの姿で存在するのは、本だけじゃないだろうか。わたしはほんとうは言葉だけの世界がいちばん好きだけれど、でも世の中はそうではないし、そうではない世の中に生まれて存在しているのが言葉だし、ならそのありのままの言葉を、そのまま扱いたいと思った。別に変わったことや、新しいことをしたいとおもったわけじゃなくてね。
詩ューティングや、最果タヒ.jpでの、私の言葉とデザインの共存や、これからはじまるデザインと言葉の試み・作品は、そうしたことの始まりとして、やっていきたいし、それがきちんと言葉ではなくWEBやデザインの業界で、見つけてもらえているのは嬉しい。でも、それは、新しいことをしたくて、とか、変わったことをしたくて、とか、そういうことじゃない。変化とか新しさとか、そんなものは周りが言うことであって、私自身が目指したりすることじゃないと思う。だって私は作る人だし、作る人がするのは、作りたいものを作る、それだけだと思うの。
   
新しいことをしよう、とか、変わったことをしよう、とか、そういうことを考える時点で古い人間だし平凡な人間なんだと思う。そういうことを意識して古さや平凡さや目を背けるぐらいなら、そんなこと考えずに、だれかがおもしろがってくれる間だけ、作りたいものを作りたい。作りたいものを作って、それがだれにも面白いといってもらえなくなったら、自分が古くなった・平凡になったと思うしかない。そこをひっくり返して、新しいことや変わったことをしようとするのは、作り手として本末転倒だとおもう。
ものを作ることはものすごく、短命な行為だと思う。そして運がとても必要になる。他人にどう見えるか、ということがたしかにものを作る上でさまざまな手綱をにぎっているけれど、けれどその見え方をコントロールする為にものを作ることは本末転倒になっていく。だから、作ったら偶然にも、おもしろがってくれる人がいた、そういう状況が続いている奇跡みたいな時間だけを、大事にしなくちゃいけないのだ。そのときだけにしがみつかなければいけないのだ。
へんな行為だと思う。短命だし、奇跡頼り、だと思う。感謝しかない。いま、だれかが私の本を読んでくれること、詩ューティングであそんでくれること。お客様は神様、という言葉が、身にしみる。