センチメンタルジャーニー

「自分に価値はないのではないかという不安がうずまきながら、ちかくのひとたちの愛情によってそうではないと教えられ、支えられてきた。いまになって、よく知らない大人たちがなんと言おうがわたしは、彼らではなくあの人達に誇れる人間になる、という気持ちは強い。」
   
おいしいコーヒーを飲めること、いいね。どうして私は病気とかするんだろうって、突っ伏して寝ながら思ったりして、生きるってことはどういうことなのかはよくわからないけれど、ひたすら、もし今死ぬならとてもいやだ、という気持ちになる。話は変わるけれど最近「気持ちになる」と書くと、「気持ちに鳴る」と変換されて、それはそれで共感みたいで、どきどきするね。だれかの気持ちにわたしが共鳴しているのだろうか。
話は戻って。
私はどこまでも私が死ぬということの想像がつかないし、健康体で、命の危険をあじわったこともない透明な、図々しい幸福の中にいるのだから、死ぬとしたらとてもいやだというのは、とても間の抜けた話なのだろう。(かといってわたしは幸せなんていやだとおもわないけれど。)それでも、今が終わるということ、次がこない、つづかない、というだけでも十分な恐怖で、この想像がちっさな未熟な、ぺらっぺらのものであるというのがさらに恐ろしく感じる。この何億倍も分厚い喪失を、いつか迎えなければならないのだ、やってけるかしら。ちゃんと死をむかえるかしら。
とか。軽い気持ちで考えていたら、退屈のあまりいつのまにか眠りに入れる。
   
若いってことね、ということになるのだろうか。それとも未熟なだけなのかしら。いつから死について考えるようになったのかしら。幼い頃は自分ではなく、他人の死を想像して泣いていたけれど。いまはどっちもこわい。でもたぶんまだ、他人の死の方がこわい。これは永遠? のことなのかしらね。