人間ほどに賢く、人間ほどに間抜けで。

体調が悪くて物を書くことができなかったので、Wii Uのゲーム「スプラトゥーン」をやりました。(インクを撃ったりなげたりして陣地を塗っていくゲームです)蛍光色に対する機敏な反応を見せるようになってしまいつらいです。イカがこんなにかわいいなんて…どういうことなの!もういかめしとかたべれない!(たべます)一色に染まるのってある種のカタルシスがあるよね。
久しぶりにゲームをやるとなんていうかやっぱり対人戦がおもしろいよねそうだよね、っていう気分になります。(このゲームは基本オンラインゲームです)一人でできるストーリー?モードもあるんだけれど、結局機械が相手となると、「敵がバカすぎる」もしくは「完璧すぎる」ために面白くなくなるんですね(たぶんよく言われていることなのにこうして「ですね」とか言っちゃうのが苦痛ではありますが、しかたがない!)。どちらもある意味、動きすべてにルールがあって、それが露呈しているので人間のような不確定要素がないのだなあ。どれぐらいバカかどれぐらい頭いいのかが曖昧で、そして状況によってそれが変化する人間という存在は、ゲームの敵にするには最善の存在で、まあ人間は永遠に対人間で遊んで時間をつぶして死んでいくのだろうな、なんと自然な…、とか思うのでした。でも、社交辞令とか社会とか上下関係とかどんどん人間はルールの枠をつくって、そこに体を埋め込もうとするよね。なんでなんだろうね。個性殺してどうすんだよ、とかそういう話だよね。でもそこから外れた人は怖かったりもするよね。なんでだろうね。凶暴さというか本性みたいなものがでて楽しいのは、たかがゲーム、ぐらいの範囲じゃないとやってられないのか。あ、だからこそゲームって楽しいのか。ふーむ。なるほど…。ゲームが生まれてよかったとなんとなくこれは、思いますね。
   
フィクションとかもさ、人間の凶暴さとか本性みたいなものを安全圏から眺められるという点での娯楽性もやっぱりあって、なんていうかそういうのって悪趣味といえば悪趣味なんだけれど、スポーツでは肉体の限界を極めた人を見るのが楽しいわけで、それの精神版っちゃそうなのかもしれない。っていうか、本性といえば悪趣味、と思う方が悪趣味なわけです。人間の本性は愛かもしれないだろ!優しさかもしれないだろ!(と、ここで書いたところで歯が浮きますゾってことにしかならないしだからこそフィクションは存在する。)でもやっぱりリアルな本性的なものをぶつけ合えるゲームとかは面白いなあと思う。スプラトゥーンは直接罵倒とかされないしそれもありがたいですね。