読むわたし、書くわたし、その他。

「書きたいもの」と「書けるもの」と「読みたいもの」が一致するというのは大変しあわせなことで、私は自分の詩とかあんまり好きではない。単純に自分が書いてなかったら読んでないだろうと思う。小説も、なんというかブレのない文体というか整列している言葉の方が好きで、海外文学の翻訳文がすき。アーサーCクラークとか。情報として言葉を追っている方が物語に集中できてしまうのです。もちろん、文体の美しさ単体を鑑賞することはとても好きなのですが、そこを味わい出すと物語を追わなくなるというか、1ページの同じ部分を何度も読んだりとかする方が楽しくなってしまうのですよね。実際そうやって読んだ本がとても多いですし、そういった場合も私に似た文体よりはもっとスマートなものを好んだり。そんなこんなで、私は「読みたいもの」「書くもの」がほとんど一致したことがないのです。
書いた印象と読んだ印象というのは必ずと言ってずれていて、たとえば村上春樹さんの小説には「やれやれ」がたくさん出てくるようにいう人がいるけど実際はそこまで多くなかったりする。読んだ人は読んだ印象でぼんやりと文章を把握するから、強い印象の部分は比重が大きく見え、実際の文章のバランスとは違った認識をもつ。だからこそある文章にあこがれ、それを模倣して書かれたものって、なんでしょうね、ちょっと濃口になるんですよね。オリジナルより癖が過多になるのです。それはなんだか「読む私」が書く行為にまで侵食する、というか、客観を失うどころか主観すら失ってしまいそうな危なっかしさがある気がしました(それをうまくコントロールする人ももちろんたくさんいるのですが、かなり強い個性と理性がないと難しいのではとかって思います)。なのでつまらないところや、困ることもありますが、私は案外「読みたいもの」「書くもの」がずれている現状をラッキーと思っているのです。
  
さて、今日発刊のフリーマガジンhonto+7月号で、小説新連載「完全犯罪請負人・臼田真二朗」がはじまりました。むかしに「こんな設定のお話があったら読みたいなあ」とかっておもっていたお話を今になって自分で形にした作品です。そう、「読みたいもの」を書いたのです。書き始めたのはかなり前で『星か獣になる季節』とか『ぼくらは殺意日和』とかよりも前でして、小説といえば詩小説的なもの(「宇宙以前」はちょっと違うけど)を書くことがほとんどだったこともあり、読者としてかなりエンタメが好きな私と、書き手としてまったくちがうものを書いている私の間に、完全に線を引いていたわけですね。そんなときに作家エージェントのコルクさんとお話しする機会があり、小説を作ることの話をして、あ、そうだ、自分であのアイデアを書いてみたらいいんじゃないかと思ったのです。インタビューなどでよく話している「物語を意識するようになった」というきっかけは、この小説を書くことで生じたもので、自分が読みたい物語を、自分が書ける文体で書く、という今のやりかたはここで定着しました。小説はある程度長くなるとやはり物語が軸になり、そうしてその物語にひっぱられていくように言葉が出てくる(私の場合は)。そうであれば私は読みたいと思う物語をそこに用意しておかなければ走りきれないなあ、と気づいたのです。今まで「読む私」という存在は、こうした作業には完全に不在だったわけですが、そこではじめて、その「読む私」が必要になったのです。電話して、「いまからこれるー?」ってなったわけです。「読む私」が読みたい物語を用意する。そうして「次はどうなるの?」という気持ちで、好き勝手な文体で書いていく。そうやってみたら、まあ単純に、とても楽しかったのです(あとすぐ完成した)。普通ならこんなのは当たり前すぎて、むしろ読みたい物語のためにペンをとるものじゃないの、ぐらいの感じだと思うんですけれども……私はそのときやっと、基本中の基本の「動機」を手に入れたんだろうな、と思いました。文体に関しては、「自分が読みたい文体」を書くのはまあ無理ですが(文体なんて呼吸法みたいなものなので、そこをコントロールするのは不器用な私には無理です)、だからこそ、なんていうか侵食を抑えめにできているのかなあ、とかって今は思ってます。
   
ということで、連載、ぜひよんでくださいね。紙版は丸善・ジュンク堂・文教堂で、電子書籍版はhontoのサイトで手に入ります。どちらもなんと無料ですぞ!(黑田菜月さんの写真といっしょに載ってます)