断片の美。連続の美。

歴史が好きで、たとえば以前ここで書いた、世界最古の天文図がどこで作られたものだろうかとかそういう話が解明されると本当にわくわくする。そこでどんなできごとがあったのかという物語を想像したいというよりは、わずかな事実として証明されたもの以外にはあまり興味がない。フィクションでなくても歴史にはよくある「という説もある」とかいう言葉にはうんざりするし、正直歴史上の人物がいいやつかどうかなんてどうだっていい。あくまでわかるのは「点」であって、それを「線」にするために、想像力を超えた妄想力が必要だとはおもわない。歴史はあくまで「点」でしかないのが私は最高だと思う。わずかな痕跡が残っていて、それを理論的に分析すると、こういう行動をした人物がそのときにいたということだけは確実にわかる、というそれだけでいい。そんな気がする。断片だからこそ歴史っていうものは魅力的なんじゃないかと。きっとそんな部分が残るなんて思ってなかっただろうな、っていうのが残るとぞくぞくしちゃう(大工さんの落書きとかね)。そこからどんな物語があったのかはむしろ考えたくはないのです。たぶん、私にとって好きな「歴史」というのは、わずかな痕跡に対して、人が現在できうる最大限の分析を行って、もはや見えない「事実」に微分していくようなその行為自体にあって、わからないものがあるならそれは埋めたくない。わからないままであってほしい。本質は「結局残らない」ということで、過去にどんなおおきな宮殿がたっていようが、消えてしまえば見えないし、細かな遺跡を調べるしかない。もちろん書物だとかが残っていれば、そこにだれがいたのかはわかるけれど、決してそこで仕えていたひとたちのことまではわからない。そこでされていたろくでもない世間話とかは残らない。何もかも残っていないからこそ、わずかな事実が明らかになるのが美しいんじゃないかと思う。というか、私は結局今、過去を知ろうと研究を続けている人たちのその熱量が好きなのかもしれないし、過去にどんな人たちが生きていたのかなんてどうでもいいよね、わかんないもん。
   
だからもう歴史系のフィクションは、最初から完全嘘ですと思って読むのが好きで、これはここが史実と違う、とかはまあ結局無頓着なタイプ(歴史好きにしては)なのですが、たぶん、それは私の知識が少なくて、結局は「史実」そのものに対して熱意がないからなんじゃないかと思う。そしてだとしたら、歴史を研究する人にとって、歴史ネタのフィクションとかどういう感じに見えるのかちょっと不思議だよね。「物語」として構築された「歴史物語」と、「歴史」の断片を知るための「分析」「研究」って、そもそも、そこにある美学みたいなものからして真逆な気がする。連続と断片。同じ領地にいるようで、全然別領域の話だよなあ、とかって思ったり。