部屋には、世界には、テレビがあるよ。

好きな音楽を聴いたら好きすぎてしんどいときがある。いい音楽を聴いたらよすぎてしんどいときがある。itunesの中から、好きでもよくもない音楽を探す。原稿を書いていて、5分だけ休もうと思った時にかける音楽がない。好きなものいいものも、結局は「書きたくて仕方がなくなる」音楽であって、休まらない。なつかしい音楽もやめてほしい。懐かしすぎてしんどい。そうやって空洞みたいな音楽を探して、結局テレビに行き着くんだ。テレビが嫌いじゃないまま大人になった。テレビなんてとか思う時代が一度もなかった。好きなバラエティ番組は終わったり、新しく始まったり、続いているけどつまんなくなりながら、でもそれでもテレビは、いいと思う瞬間がある。私を放っておいてくれる。
   
自分で選んだものを集めていくことは、天国を作る行為に似ている。いつだってそこに行けば間違いないと思ってしまう。でも本当にそうなんだろうか? 好きなものは私を幸福にするか? 好きな本も音楽も、そこにすばらしいものがあるというだけで、あとは私が焦るだけだ。作らなくてはいけない。すばらしいものであればあるほど、世界を埋めていき、私は世界にいられなくなる感覚。っていうかそういう感覚が好きだから、そう思わせてくれる作品が好きなんだよ。で、そういうのが疲れる時もあるのだ。そういう時はもう十分頑張っているという時で、充実しているという時で、そういうときにあせらされても、ただ空回り。だから聴くことができなくなってしまう。そういう日々がどんどん増えて、で、大人は「昔みたいに音楽を買わなくなった」とか言うようになるんだろうか。だとしたら悪いことではないよな、と思う。必死になれないぐらい暇だった、10代の頃は、命を燃やしていくような、自分も焦ってしまうそういうものに憧れた。でもそういうものに自分もなっているとするなら、寂しいと思う必要はないんじゃないかな。
   
なんの話だっけ。テレビが好きっていう話。テレビは見逃しても5秒で、まあいいや、って思ってしまう。それでもそういう軽さがほしくて、テレビをつけているんだっていうことも知っている。昔みたいにずっとつけていなきゃつらいってこともないけど、だからってテレビなんてくだらないとは思わなかった。むかし、国語の勉強してたとき、親がテレビを庭の石にたたきつけてこわす、っていうお話を読んだのをいまだに覚えている。家にテレビがないっていう人は、一定数いる。なんとなくそういう大人になるんじゃないかとか思っていたんだけどならなかったし、いまだに世界はうるさい方がいい気がしている。好きなものだけがならんだ家の本棚より、書店の棚の方が好きだし。いつまでも自分の世界なんかいらないから、世界には広くうるさく都合が悪く、それでいておせっかいでいてほしいと思う。