反射神経的感情否定論

世界で生きるということは、誰の味方をするか、ということをずっと選び続けることで、それでもすべての味方をする方法はないのかって、小さな頃は確かに思っていた。敵意がないと正義がたもてなくなるなんて奇妙な話だ。悪役が必要な正しさとはなんだろうか。かわいそうなひとのために作られたものをみるとよくわかんない気持ちになるし、だからといってかわいそうでないひとのために作られたものが見たいわけではない。全ての救いとか正義とかは需要と供給があって、そしてそれを反転させるようにして、敵意も発生するんだろうか。だとしたらなにもかもをつつみこむ優しさなんて入道雲ぐらいしかなくてそれでも私はこの世界をどこかでいい感じだと思っている。(美味しいケーキが買えるから)
やさしいひとをみるたびに、ただの親切な人であればいいのにと思う。すべてのやさしさは親切に負ける気がしていて、善意とやさしさはじつは別物なんじゃないかとか考える。正しいと間違いをつくっていく、生み出していく、やさしさは、また今日を少しだけしんどいものにしていて、でも確実にどこかで誰かを救っているからしんどいことぐらいしかたがない。優しさすらも需要と供給が要でしかなく、すごく売れている漫画とか音楽とかを私は嫌いって言ってしまえることは自由だけど、でもたくさん売れているのはそれを欲している人がいるからで、そのことを否定することはできないし、それと同じ。優しさも毎週オリコンとか出したらいいのに。今週の第1位!
   
需要と供給で機能するものはすべて、すべて買わない自由があると思っている。たくさん売れているからなんだというのだ。私はあるとき、とあるすごい流行ジャンルについて「ゲートボールを見ているような気持ちで見ている」と話したことがあって、それは真の無関心。これがきっと買わない自由。好きでもないものに怒りとか憎しみをいちいちぶつけるのはたぶん、ゆがんでいるんだよ、そんなことは誰だってわかっている。でも黙っていたら、好きじゃない、興味ないってことが主張できないから、だから簡単に「嫌い」って言う。そして無意味に敵意が生まれて、対立構造ができるのかな。そのまんまで言えばいいけど、でも、伝わらないしね。「好き」は簡単に暴力になって、「興味ない」なんて気持ちを押しつぶすから、対抗するには積極的に、憎んだり嫌ったりしなくちゃいけない。でも、そんなの、感情でもなんでもなくて、ころんだときにとっさに手で体を支えるぐらい、それぐらい反射的なものだから、ひとつずつ、気持ちの形に戻したい。あわてて中身を守るために塗り固めてしまった、そんな言葉を溶かしていくようなことがしたくて、だから私は詩を書くのかな。