主観vs主観のススメ

前に、芸人さんが、面白いと世の中でされている人は、誰よりもダントツで面白いことを言い続けているわけでなくて、すべったときにすべったことを悟らせないのがうまいんだ、っていう話をしていて、それはまあ美学で反論しようと思ったらいくらだってできることなんだけれど(「いつでも全力でいろ」だの「最新作がいつだって最高傑作ぐらいの気概を見せろ」だの)、でもやっぱり前線で戦う人が最優先すべきなのは美学なんていう食べることも他人を幸せにすることもできないものではなくて、徹底したプロ意識であり、職人根性なのだろう。「生業」という言葉で仕事を語る限りは、なによりも「損をさせない」ということ重要なのかもしれない。「損をさせない」っていうのは、どこまでも他人の主観に委ねている。本人が面白いこと最高なことを言ったつもりでも、世間が違うと言ったら違う。なんというか、テレビの前線でやっている人らしい言葉だなあ、と思った。
    
笑いほど、受け手が尊重しないものもないと思っていて、「お笑い芸人なんて馬鹿な人がやる仕事」と昔テレビでアナウンサーさんが言ったのをみて、私は「何言ってんだこの人」と本気で思ったんだけど、でもそう思っている人がいるのもしかたないとはおもう。ばかにされてこそ始まる笑いがたくさんあって、漫画もそうだけれど「そんなもの見てたら馬鹿になる!」って大人が子供に怒るぐらいがベストだとは思うんです。だって娯楽だし。笑ってこそだし、楽しんでこそだし。だから、関西では「お前はアホやから吉本に行くしかない」とかいう定番の言葉(でも実生活で聞いたことないぞこれ)が生まれているのだ。アホやと務まらん仕事やと思いますけどね。まあそんな話を部外者の私がしてもしかたがない。
とにかくだからこそ、「おもろない」「おもろい」の判断がどこまでも受け手個人個人に委ねられている気がするんですよね。芸術作品とかだと「あ、これすごい有名なすごいひとが、すごいって言っていた、すごいと噂のあれか」というように(この語彙力のなさは、わざとですからね)、自分の主観以外の何かを加味した上で作品を判断しちゃうこともあって、それは「自分の主観」に対する自信のなさ、もしくは主観で判断することに対する不信感がそうさせているんだろうけれど、でも、笑いとか漫画とかは、主観への自信がみんなすごい。みんなが全力で主観で判断していいと思っている。だから安心して「おもろない」って言ってしまえる。それはすごいことですよね。それが楽しむってことですよね。
     
音楽の趣味なんかを中学とか高校の頃にいうと、もっと知識を持っているひととかに「その程度?」みたいなこと言われることがあって、何が好きかなんて個人の自由じゃないの? とは思うけれど、そういう人はたいてい「自分の好み」すらも客観的な判断のふりして語るので本当に頭が痛かった。好きなものを自分のスペックか何かだと勘違いして、他人とそこで優劣つけようとする時点でどうなのかっていうかんじだけど、それ以上に私は、その「客観的なふり」にうんざりしていた。とにかく反論を受け入れてくれない。主観なんかで判断していたらみんな簡単に反論できるから、さも客観であるかのように語る、というのは本当にみんながみんなやっていることで(大小はあるけど)、一つの戦術ではあるしあって当然だと思うけれど、でも、音楽ぐらい、主観で反論しあった方が単純に楽しいのでは? というかそのために娯楽ってあるのでは? 芸術だってそうなのでは? 感性に対してかたりかけるものなのだから、主観でいいのでは?!(批評とかはともかく!)前に、自分がめちゃくちゃかっこいいと思った音楽を聴かせて「気持ち悪すぎて事故りかけた」って言われたことがあって、それはもう最高だった。そこでなんちゃらとなんちゃらの融合が歴史的にもなんちゃらとか言っている場合ではもちろんなかった。これは?これは?ってどんどんいろんなもの一緒に聴くタイミング、主観のズレをおもしろがるタイミングだった。軽すぎるのかな? 作品に対する敬意がないのかな? でも、ひとは、自分自身の感性以上に重んじるべきものなんてないと思うの(最低限の常識があれば)。作品も素晴らしいけど、いい悪いって感じ取れる、自分自身もおもしろいって、そう思ってもいいはずだ。