ポエムでもいいし、うどんでもいい。

人がつねに正直であることを願う人間が一番ゲスい。という話があります。「ぶっちゃけ」という言葉が苦手だし、下品な話が嫌い。そういうのをまともに聞いてられないのは、お澄ましモードでしかないというそういう世の中の方程式も嫌い。みんなぶっちゃけるべきだというそういう発想は、相手の自尊心や生きる上での理想をひたすら無視しているので、純粋気取ったただのゲス。とか言いたいけど言わないけど、距離感の感性が合うか合わないかで人間の相性とは決まるような気がしている。リアルが充実しているとかそういうふうに言われる人というのは案外この距離感を相手によって変えるのがうまかったりするのだよね。人付き合いに常に「ガンガンいこう」系の人は、自分と同類となかよくしているだけなんだけれど、でもそうでないひとというのは、相手が望んでいる距離感を推し量って、相手の望む距離から話しかける。ああいうのはホスピタリティだなあ、と思う。プライペートをガシガシ聞いてもいい相手とそうでない相手を見分けたり、すぐあだ名つけていい相手なのかどうかを見分けたり、そういうのができる人は本当に現実充実者だし、普通に尊敬してしまう。
   
作品にどういうタグ付けが行われるかというのは、実はあんまり気にしていない。詩とかポエムとかサブカルとか中2病とかセカイ系とか。もともとただのブログを詩だと指摘されてこの活動は始まったので、そもそも詩だと思って作品を読んでもらうこと自体にあまり、そこまでこだわりがない、というか、詩というものは本当は作品が名乗るのではなく、読み手が「詩だ」と見つけてくれるような、そういうものだと思っている。小説だと思われてもいいしポエムだと思われてもいいし日記だと思ってもらってもいい。もちろんそうした言葉を使ってくる場合「どうせああいうやつでしょ、だから読まない」っていうパターンと、「うまくいえないけどたぶんこういうやつ」と知っている言葉に置き換えてくれているだけのパターンがあって、前者の場合は、どちらかというとどういう言葉をタグ付けするかが主題ではなく、拒絶が主題で、タグ付けはそこに与える正当性(その人にとっての)でしかないから、それはタグ付けの問題でもなんでもないしただ嫌いっていわれているだけだから仕方ないとしか思わない。今、ここで書いているのは後者の場合。言葉にジャンルなんて必要ないんだ。あれはいつだって便宜上のもので、ジャンルのために作品を書く人なんていないし、だからジャンルのために作品を見る必要もない。詩をよく知らないなら、ポエムとか手のひら小説とか日記とか、自分が知っているもの、安心できるものを想像して、それの一種だと思ってもらえたほうが気楽なんだし、それなら全然それでいい。むしろ、そうやって言葉を見つけてくれたことが嬉しい。理想論というか人間が人間であることを無視して書くなら、そもそもジャンルなんて何も気にしないで、言葉そのものとしてみることが一番フラットなのかもしれないけれど、でも、人は全くわからないものに触れる勇気があまりないし、作品に触れていくきっかけが見つけられないから。だから、たぶん、知っている言葉と知らないものを共鳴させて距離を縮めることは必要なんだ。正しくとか大切にとか、そんなふうに扱われなくてもいい。作品は読まれる時は読み手その人自身のものだから、もう好きでいいと思う。それがきっと理想論ではなく現実としてのフラット。タンブラーとかツイッターとかで作品を流すのもそのためで、その人の感性のすきまに、ふとした拍子に飛び込んでくる、そういう言葉を作っていきたい。
    
俗的とされる言葉で片付けられることが昔からあまり気にならないというか、前にもサブカルという言葉で語られたりするのは、ただ私が「今」と共鳴しているというその証でしかない、という話をここ、に書いたけれど、ポエムとかいう言葉もたぶん同じ類なんだろう。実は作り手にはあんまり関係ないことなんだよね。どういうふうに呼ばれるのかなんて、結局は呼ぶ側のためにある選択肢だから、作品の解釈と同じように、それは読み手の勝手なんじゃないかなと、私は私の作品については思います。