きみのメロディ

私は青春時代に本から離れて、歌詞を読むようになっていたのだけれど、松本隆さんや浅井健一さんの歌詞というのはジャンプがすごいということで、行間を読むという言葉が指し示す「行間」が絶妙なのです。歌詞にはメロディが付随していて、メロディがその隙間を埋めていくからこそ、説明が省かれていき、そうして言葉が自由になるのかもしれない。私は基本的に説明をされる、段階を踏む、ということが非常に嫌いで、なぜ感性がかかわるものにすら説明がいるのかわかんなかったので、感性を感性としてそのまま投げ出せる、そうした行間の無邪気さが好きだった。
行間が広がれば広がるほど、わかるひとにしかわからなくなるし、どこに渡ったらいいのか、小川なら向こう岸が見えるけれど、長江とかは多分見えない。でも、そういう中で船頭として、メロディがあるのかもしれないし、そうした補い合うところに美しさを感じる。で、じゃあ、詩はどうなのかともおもうよね。私はそういうのが好きで、こういうのかいてもいいんだ、って思って、説明無視した言葉とか、書くようになったけれど、それならそこにメロディがないけど、大丈夫なのか、という話はあるよね。
私は多分、読み手の人の体に最初から流れているメロディに、歌詞をのせるような、そういう作業をしていると思っている。
   
人間の体には最初から思想があって、感情があって、経験があって、過去があって、未来があって、予定があって、期待があって、不安があって、それは全部メロディとして、私が書いたものとなにかを補い合って、一つの作品を作ってくれるだろう。何でもかんでもそうだとは思わないけど、でも私が書いているものはそうだ。きみのメロディに詩を書きたい。