フィクションを現実にするには。

萩尾望都先生の漫勉を観ました。(漫勉はNHKでやっている漫画家さんの制作過程に密着する番組です)先生とは何度かお会いしてお話ししたことがあるのですが、とにかくフレッシュ、魂そのものがフレッシュ、という方で、物語ることへの喜びが、常に、まるで初めて見つけたものかのようにあふれ出ていて、お会いするたびにまぶしくって圧倒されます。本当にこの仕事を愛してるんだ、というか、もう本当に「生きる」ということと同値なんだ、というのがびしばし伝わってきて、クリエイターという言葉がもてはやされるよりもずっと前、その言葉に本来備わっているその力、神聖さそのものに、お話ししている間は溺れてしまいそう。それなのに私みたいなひよっこの話も真正面から聞いてくださって、ドキドキしてしまう。
   
原画展で見た半神の原画は、修正も消しゴムのあとも一切見えなくて、まるで最初から、紙がつくられたときから、いやむしろその原材料の木材のときから、そこにあったような、そんな佇まいをしていて、本当に本当にショックだったな。「本当にあったんだ!』って。もちろんお話はフィクションなんだけれど、でもフィクションよりももっと底にあるなにか、本質的なものが「リアル」なんだと思い知った。物語とはフィクションなんだけれど、それを作り出す人と、それを手に取る人は現実で、だから、同時に現実でなくてはいけないのです。たぶん誰にも伝わっていないだろうけれど、でもなんだろう、フィクションが現実として存在するには、現実が犠牲になっていなければいけない気がして、それが実際に起きていたんだよな。そこでは。線のあり方、その非現実さ。呼吸をするように、風みたいにすっと描かれていて、そこには様々な過程が積み重ねられているなんて、完成された絵を見たら少しも想像ができない。バレリーナがまるで息をするように踊るけれど、でもシューズを脱いだら足はボロボロなんですよね。それと、きっと同じ。(「必死でやらないと伝わらない」という先生の言葉も番組内で流れていましたね。)物語とはフィクションでもあるんだけど、現実において消費される限り、ある意味では「現実」でもなくてはいけなくて、そこを接続するというその行為、それが「クリエイター」という言葉に本来あった力の正体なんじゃないかと思う。生すべてを注ぎ込んで作ること、そこになによりも喜びがあること、なのかな。そんなふうに思うようになれたのは萩尾先生のおかげです。
   
王妃マルゴ volume 1 (愛蔵版コミックス)