子供と春は体温にすら無自覚

ひとつ・オブ・たくさん、であることが本当に嫌だけれどそれはもう抗いようがないことなんだよな。どれほど好きな音楽も本も絵も、世界にとってはひとつ・オブ・たくさんであって、それが世界のすべてには決してならないし、お金があろうが権力があろうが、だれだって、ひとり・オブ・たくさんであって、知らない人の死亡情報を3日後に忘れるのは病気でもない。このあってもなくてもかまわない、そういうピースでいることを脱したくて、もがくことは、それでも血液が逆流するような感覚を与えてくれるから、負け続けることも私には愛おしい。私が私であるというその事実においてのみ、ひとつ・オブ・ひとつ、として充足するのだから、それさえあれば世界に負けるぐらいどうってことない。
   
私は人の弱さだとかが非常に好きで、それはもう小さい頃から、悩むというのがよくわからなくて、悩んでも結局今日のアイスは何味にしよう、とかで、そういうのでやりすごしている時間に、自己否定、vs理想、やりすぎている同級生がきらきらしていたからなんだよな。センチメンタルというものにたいする憧れが、センチメンタルやるべき時期にすごくて、センチメンタルを観察するのが楽しかった。私はどうして、お小遣いが足りないとかそういうことしか悩んでいないのだろうかと、とても不安になった。で、おいしいクレープを帰り道に友達と食べて、そういうめんどくさいことは忘れていった。緑色がたくさんあるなーって、公園に行くと思うし、海に行くと、やっぱ地球は丸いよねー、と思うし、そういう繰り返しの中で、私もこの風景のように、永遠であり、いつだって何らかの欠損を抱え続けていてくれたりしないかな、なんて、期待していたんだよな。人間は、悩むことは、ただ単純に美しいし、それを恥じるその姿や、それをあざ笑う人たちの、そのシステムに、系にすら、愛を覚える。
   
冷えている春も、あったかい春も、空気が自分の温度に自覚がないかんじがして、吸い込んでもいつもよりぼやけている。小さい頃は熱が出ても気づかなかったし、そういう感覚なのかな、春って。