ちゃんと嫌われたい。

店員さんのマニュアル的対応がどうこうという話題はよくあって、私は別にそのあたりはさほど気にならないのですが、「マニュアル的なお客さん」になってしまいがちな自分に、よく憂鬱な気持ちになります。自分が接客アルバイトをした経験があるからなのかもしれないけれど、そのお店でのルールというか、店員さんにとって都合のいい注文方法だとかを気にして、注文をしてしまうということ。そこからはみだしたことを聞けないし、そこからはみだすことがそもそもできない。コーヒーショップでは聞かれる前から、注文メニューの前に、サイズと持ち帰りかここでお召し上がりかとホットかアイスかを、簡潔に並べて述べて、変な略語で商品を呼ぶことや(アイスコーヒー=アイコとか)、ゆびさしだけで注文することもどうしたってできなかった。店員さんの決まったセリフで注文を聞いてくることがマニュアル的であるならば、私のお客さんとしてのあり方もマニュアル的であるとしか言えない。私はそういう自分が非常になさけなく思うことがある。
   
昔からルールだとか、慣例のわからない場所に行くのが非常に苦手で、かなり幼かった頃銀行だとか郵便局に一人で行くのも怖かった。ボタンを押して、カードをもらって、自分の番号がアナウンスされたら受付にいくというあたりまえのルールを知らなかった私はどう対応したらいいのかわからなかった。いまなら子供なんだし、行員の人にきけばよい、とおもうのだけれど、そもそも自分はちゃんと一人前だと信じたいからできるわけもない。(それに、今ならインターネットがあるから、何をするにしても、どういったものが必要か、だとかそういうルールを事前に知る手段がある)とにかく、社会はルールまみれで、一個ずつ覚えていかなければいけないということに本当に憂鬱な気持ちになった。
自分の場合、という前提で書いてしまえば、マニュアル的なお客さんとは要するに、自分の「主張」に責任を持てない人なのではと思っている。お店でマニュアルから少し外れることを「これってできますか?」と聞いて「難しいです」と言われたので断念したことが、別の日に他のもっと堂々としたお客さんによって「こうしてね!よろしく!」という一言で通ってしまったのを見たことがある。人間は主張したもん勝ちというのは、主張できない人間ほどよく目にしているし、誰もそんなこと求めてないのにマニュアル的な態度で物事を進めようとするのは、要するに「透明」な存在になろうとしているだけではないかと、自分が嫌になってしまった。主張というのは重要で、思ったことを言うことによって切り開かれるものがあると知って高校時代はそうした性格でやっていこうとしたけれど(私の周囲にいる人は、「主張は大事」という教育をする人がほとんどだった)、主張したことで露呈した自分の身勝手さだとか気の回らなさに対して、自己嫌悪がひどくなるし、私は他人から見て「透明」になりたいのではなく、自分から「透明」になりたいのだと知った。主張が通らなくてもいいから、自分の身勝手さを知りたくないのである。それで「主張しないこと」にまで自己嫌悪するならそれこそただの身勝手だ。
   
しかしやっぱり主張をすれば、他人を不快にすることもある。迷惑であることもある。それは避けられない。そこを抜きに賛美はできない。私は基本、親しくない人に本音を話す意味ってあんまりないと思っていて、つまり相手が店員さんでなくても、他人に対してはマニュアル的な態度でいることがほとんどだった。できるかぎり相手を不快にしないように、それを第一に考えて対応をする(そもそも本音をぶけられても困るだろうな、と思っていた)。それは優しさでもなんでもなく、相手の「不快」から逃れる手段でしかない。けれど、それは一方で礼儀だとも思っていたのだ。その価値観を破壊したのはなんでやねん帝国・大阪と、その周辺、つまりは関西という土壌だった。神戸に生まれたこともあり、関西人に囲まれる機会が非常に多かったためだろう。私は、あるとき、他人に与える「快」「不快」は、コミュニケーションにおいてただのメリハリでしかないという衝撃の事実を思い知ったのだ。
恐ろしいことに、他者を「不快」な気持ちにするのも、コミュニケーションの一環らしい。なんていうと、まあ、野蛮な話にしか聞こえないし、実際それがうまくできている人はほんのわずかで、その真似事みたいなことをして野蛮になっている人はたくさんいる。これは関西における「いじり」と呼ばれる会話術で、相手が通常隠している部分、触れてほしくなさそうにしている部分について、あえて踏み込み、それによって相手が見せた「不快」の感情をきっかけに、うわべだった会話の深度を強めるというもの。これが上手い人は、相手がどこを踏み荒らされたら、本気で怒るのか、傷つくのか、きちんと判断しているし、そしてその部分については一般の人よりもずっとずっと尊重をする(そういうひとが陰口をたたいているような場面はまあ見ない)。相手自身もなんとなく伏せている部分、もしくは他者が勝手に気を使って触れないようにしている部分を、うまいことを選び抜いて、相手が嫌がらない程度に軽く踏み込むのだ。そうされると、会話している方も「お前なんやねん」とかいうのかは別にして、遠慮して相手に言えてなかったことをぽんと言えるようになる。ちょっと自分を嫌わすことで、結果的に相手の遠慮や我慢をとりのぞく手法だ。これはもう才能の一種なので、後天的に身につけようとするぐらいならそこらへんのテーブルマナーとか学んだ方がマシだと思う。これができていると思い込んでいる関西人の中でも、実際にちゃんとできている人は本当に少ない。ということを、念のためここに書いておきます。
   
「他者に嫌われる」ということを恐れる時点で、「現時点では自分は好かれている」と考えているのだから図々しい、というのはアンタッチャブル柴田さんの言葉(文体などは違う可能性が高い)だけれど、でも実際、「嫌われる」ということをそこまで恐れる必要はないだろうと今は思う。相手が本気で傷つくことなら当然やめるべきだけれど、ただ自分が嫌われる程度で済む話であるなら、その可能性まで選択肢に入れるのは、コミュニケーションとしてむしろ誠実なのかもしれなかった。私は時々そういう人と接して、そして自分のマニュアル的態度が、なによりも身勝手で、ナルシシズム溢れまくっていたことを思い知った。といっても私に「いじり」とかいう超絶高等伝統芸能は身につくはずもないわけで、変わったのは「嫌われる」という可能性から目をそらさない、逃げ出さないというそれだけ。主張を少しだけするようになったという、それだけだった。(それに、嫌われるのはやはりまだまだ苦手でもある。)でも、「嫌われる」ということから目をそらさないというのは、自分のやることに責任を持つ、その一端なのかもしれない。ということで知り合いの中で私のことを嫌いな人はちょっと増えたし、そして私のことを面白いと言ってくれる人も、たぶん、ちょっと増えている。