まとめない尊敬

ひとを「尊敬」するという感覚はなかなか理解が難しいもので、私はなんとなく「すごい」と思うことが「尊敬」だと思っていたのだけれど、でもそれはあきらかにたどたどしい理解で、「尊敬」という言葉がこの世になかったのなら、絶対にそうは思わなかっただろうともわかる。先日、ある方と対談をさせていただいて、この感覚が「尊敬」だ、と思い知った。この感覚はまだ知らなくて、だから名前をつけてみようかと思い立って、それから「尊敬」という言葉にたどり着く、そんな健康的な気づきだった。憧れることや、かっこいいと思うこと、そういったものとも少し違って、それらを超えたところにある「その人がこの時代にいてくれて良かった」という安堵。昔、他者にあこがれるというのは非常に不健全だな、と私は思っていたのだけど、この安堵は自分自身のアイデンティティを否定したりはしない、とても自然なものだった。ひとには友達がいても恋をしても兄弟がいても両親がいても、お金があっても夢があっても、拭えない孤独があり、そのうちの1つは、「尊敬」によって埋められるのかもしれない。
   
誰かに憧れることは自分よりも他者になりたいと思うことで、そういうのはなんていうか、「自分なんていらない」と言ってしまうことに近い、なんて思考が昔あった。本質的に、世界と自分を区切る境界線は曖昧で簡単に消えてしまうという危機感が強かった。でもいつのまにか、「他人の中に山のように天才がいる」というそのことが嬉しくって仕方なくなっている。他人によって世界の色は強くなり、それをよろこんで眺めている私は結局、自分にピントがあったんだろう。不明瞭で、どんな人間なのかすらわからない自分を持て余して、そんな自分を見つけ出すためだけに、他者を必死で見つめていた。でもそれはあくまで、自分を見つけるためでしかなかった。今ははっきりと、油絵の具で自分は塗られていて、世界が何色だろうが見つけることができる、そんな安心感がある。すると、それまでだって必死で見ていたはずの他人がもっともっとバラエティに富んでると気づいたりするんだよね。
  
詩集を読んでくださった方が、ときどき「従来の詩」や「詩壇」という言葉を使って私と比較することがあって、でも、私は「従来の詩」とはなんなのか知らないし、詩壇というものを見たことがなかった。どんなジャンルでも、「業界」という言葉や「ジャンル」を主語として使われることは多くあり、便宜上、それらはまるで一つの意思を持った集合体であるかのように語られる。けれど中身は複数の人間や作品で、家族だろうが友達だろうが反発しあって喧嘩しているようなこんな協調性のない生物が集合体としてうごめくわけもなかった。世界は自分と相対している一色の存在ではない。何十億もある絵の具の一色が自分だというそれでしかない。そういえば、昔、詩というものを意識し始めた時、「詩とはなんぞや」といろんな詩集を手に取って、でも、読めば読むほど、全部が違いすぎていて詩がさらにわからなくなったことがある。ジャンルとは、「バラバラなものをかろうじてまとめあげている言葉」でしかないと思い知った。文化も食べ物も、それから人間も、外側から見れば同じ器に入っていても、混沌を避けるために同じ器に入れざるをえなかった、というそれだけのことなのだと今の私は思います。