後天的子供

私は考えるのが苦手で、何か考えようとか、思おう、とか、しようとしても空洞の中に空気が通るようなあんなじーんという音しかならず、でも言葉を書こうとすると言葉が代わりにかんがえたりおもったりしてくれて、まるで私が感受性豊か、みたいな錯覚をさせてくれるので好きなんです。絵の具とかも、あって、ぬりたくれば鮮やかなものが見えてきて、たとえ想像力がなくても手を動かせばカラフルなものが見えてくるというの、本当に魔法だと思うし、言葉もたぶんそういうのに近い。粘土とか絵の具みたいに小さな子が気軽にそれで「遊ぶ」っていう習慣はなかなかないけど、歌とかがそーいうのを助けてるのかもしれない。言葉を書くっていうことがもっともっとみんなの身近な遊びになればいいのになあ。非常に勝手なことかもしれないが時々そんなことを思う。
文章を書いてそれでお金をもらっているけれど、結局言葉は私のものでは決してないし、みんなが所有しているものを借りてきているだけのような気もしてちょっと不思議な気がしている。「愛」という言葉にしても、辞書的な意味よりも、たぶん私は個人個人がその言葉に対して抱いている印象だとか、そういうものを引き出すためにその言葉を使っていて、言葉を書くことで思考がやっと動き出す感覚はいろんな人が生きているというその事実に身を委ねさせてもらっているからなのかもね。
こういう話はたぶんおもしろくないからこのへんでやめる。話は変わるけれど、子供のときに私が書いたり作ったりしたものはことごとく凡庸で、お行儀が良いとしか思えないものがおおい。宿題だとかそういう形ではなくて落書き帳に書き散らかしているもののほうがまだなんとなく、へーこんなこと考えたんだなんて思う部分もあって、いやそれでもなんていうか不器用だなあ、とはなる。そもそも自由になるということがいいことだと思っていなかった。子供が幼いからっていちばん自由気ままであるかといえばそうでもないんだろうな。子供の方がずっと周りの空気を読む必要性にかられている。だってかわいがってもらえなきゃ死ぬって常に追い詰められている立場じゃないですか。
   
社会のことを必死で意識してなんとか守ってもらおうとしてしまうことが、じつはいちばんの「子供らしさ」だと思うし、いまそういうのが私にはない、とも思う。もう友達なんていらん、信頼なんて知らん、社交辞令なんてむずい、ねむいときはねる、たべたいときはたべる、みたいな大人になってしまったのでそういうことを思う。これは自分で自分の面倒が見れるようになったからとかそういう立派な話ではなくて、もっと情けない話、「生きねば」「育たねば」という欲求が低下しちゃったからじゃないかと思う。死ぬということや見放されるということが無性にこわかった子供の頃に比べると、いろいろわかったつもりになってしまった(あくまで「つもり」)というのが今の自分で、それだからこんなに身勝手になったのかもしれない。世界なんて大したことない、とかって、しがみつかなくなったのかもしれない。昔は、図工だって授業だし、作るっていうのは課題だし。一生懸命言われた通りにやろうとして、それでいて褒められるのは「自由奔放な子供たちによる作品」であるという事実がショックだったように思う。学んでなんとかなるものではないし、要するに素材として私はもう失敗作の子供なのでは? と思ってしまったのかな。覚えてないけど。だからか今、スーパーだとかで似顔絵を上手にきっちり書いている子供の絵を見ると、胸の中がざわざわする。みんな、さっさとこの世界を見放してもOKなんだって気付けるといいよね、と思うのだ。子供がかわいいのは、たぶん、世界にたいして期待しちゃっているからなんだろうな。