景色を作る日々

‪今年書いた詩をまとめてたら、つぎの詩集つくれそうな気配があった。来年に出すことができたらいいな。‬いつも、完成して出番をもらえた作品というのは私の中で存在感が皆無になるので、まとめようなんて師走だろうが思わない。今回はさきになんとなく詩集がつくれそうだ、という感覚が生じて、だからひさしぶりに詩のファイルを見直していた。詩集を作りたいっていうこの感覚はなんだろうな、書くとはまた違うなあ。
‪詩を書いて、手元に積み上がっていく感覚と、そろそろ詩集を作ろうと思うタイミングはそこまで合っていなくて、たくさんあればいいってもんでもないし、いい詩ができればいいってもんでもない。私にとって詩集を編むというのは詩を書くことはまったく別の作業であって、だからこそ、量でも質でもなくて、編むという行為が楽しそうだと期待できることが一番に重要みたいた。私は今年の初めがかなり、遠くに感じる。振り返ると、あれもこれも今年かよ、まじかよ、と思う。一年って年を経るごとに短く感じるはずなのですが、なんだか今回はこの一年に2回ぐらい年越しを経ているような感覚でした。そしてだからこそ来年は詩集を作ろうかな、と思う。それぐらい過去が意味不明だったように感じるから、そろそろ詩集を編むタイミング。‬

ネットと本で、意識して書き方を変えますか、と言われるけれど、私ではなく読むひとの意識が変わっているから、私はただそれに沿っていくだけだと思っている。ネットではリアクションが少なかった詩を本に入れることもあるし、ネットで人気でも本に不向きだと思う詩もある。ネットで流れるニュースやつぶやきやゴシップや悪口や歌詞ツイートと並列に読まれることが似合う言葉もあれば、「詩を読もう」という意識が読み手にあってこそ咲くものもあるんじゃないかなあ。本というのは、読み手個人の時間の流れによりそうことができる。ネットでの言葉は、絶対的な世界の言葉に寄り添い、だからこそ読み手を不意打ちにできる。そもそも人の時間の流れは、主観的なものと、絶対的な世界のものがあり、それがその人の歴史をつくるのだから、私はどっちの言葉もあって欲しいと思う。どっちもあたりまえに存在できることが言葉のうれしいところだと思ってますよ。

本をだすときはいつも、どこかのだれかの部屋の、枕元や本棚にその本が置かれていることをイメージする。開かれている本の姿、読まれている本の姿もいいのだけれど、本を「本」という特別な存在にしているのは、その閉じた姿にあると思っている。いま、読まれなくてもその言葉が部屋にあるということ。手元にあるということ。いつだって読めるということ。それは忘れられないひとや、においや、味や、声、それらを心に抱いて、生きていくことととても近いと思う。おおげさかな、おおげさかもしれないけど、私は当事者だからそう信じることにしている。
アメトークの読書芸人で又吉さんの本棚に『死んでしまう系のぼくらに』があったのをみつけて、その翌日にドキュメンタリー番組で一般のひとの本棚にも見つけて、なんだか得体の知れない感覚にひたっていた。本を出して、出版された冊数をきいて、勿論数字としてそれはとても嬉しいのだけれど、本当にどこかの屋根の下に暮らすひとの、生活の集積としてある本棚に、自分が書いた本がそっとささっているというの、一際に眩しい。ひとりのひとの毎日みつめる景色の中に、朝に、夜に、夕暮れに、その本はあるんだ。私はその景色を作っているんだ。本を作ろうとするたび、そんなことを考える。

 詩集「死んでしまう系のぼくらに」
 「届く詩集」を目指して作りました。44篇の詩。
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