大丈夫、嫌いだよ。

誰のことも嫌いだな、と思うことは時々あるし、そういう日のために私は昔誰もいない図書室に立ち尽くしていたのだと思う。誰のことも嫌いだけど、誰も私のことを知らないと、本に囲まれるとよくわかる。百年以上前の本、海外の本、死者の本。嫌いだからって焦らなかった、私には私しか結局はいないから。
嫌いな気持ちに対してどれくらい「いいんだろうか」と不安に思うのかが、世の中的な、精神の成熟度を表すのかなと最近は思う。でも、嫌いだからって攻撃しようとは思わないし、蹲って「嫌いなんだよごめんね」と独り言言うような感じだから、私はずっと焦らずにここまできたし、これからもこのままがいい。
   
別にこんなことを書いてどうしたいんだろうと思う、愛が生活を満たすことや愛で人生をどうこうするという話を聞いていると時々とてもくだらないと感じて、何を当たり前な事を言っているんだろう、と思う。だいたい人はほとんどが当たり前のことしか言わない、あとは狂ったこと。当たり前でも狂ってもないことを言う人がいないと感じるとき、退屈で頭を掻き毟りたくなる、ごめん、嘘だよ、世界は楽しいね。愛を貶すつもりはないし、うん愛しましょうねと思うけれど、いつまでその話をするんですか?まさかそれで全てが済むと思っているの?愛が貫くのは個人の生活だけだ、個人の生活だけではこの世界が成り立たない、私の人生すら成り立たない、都合よく人生を切り抜いて、愛に似合うようにすることを私は好まない、理由もなく誰も彼もが嫌いなとき、愛は不足しているわけではなく、意味をなさなくなっている。愛しているのは当然だ、別に死なせたくはないし、良い人生を全ての人が歩めば良いと思うよ、嫌いで仕方がないけれど。私が嫌うことはあなた方には関係のないことだし私は何も阻まない、どうぞ幸せになってくれ。愛の話ではないんだ、ということにいつまでも気づかないふりをして、人間は退屈になるのだろうか、老いていくのだろうか、美しい日々になるのだろうか。つまんなそーだな、と、どうしても思う。全ての人が嫌いな夜は。