しんどい

学校の授業とかで、差別について学ぶとき、それから日常において差別や偏見について話すとき、「差別をしてはいけない」という視点で語られることがほとんどで、「自分が差別される」ことに対してどうしたらいいのか、話されることは少なかった。あなたは差別されるのだ、不当に、突然、この世界はまだそんななのだ、と学ぶことは極めて少なかった。だから自分が「差別をしない人」になればいいんだと思った、偏見を持たない大人になろうと思った。でも本当はそんなものでは少しも足りない、世界は善人が一人増えたところでどうしようもない状態になっている、なにより、善人になろうが悪人になろうが関係なく、あなたは無数の人間に差別される可能性があるのだ、ここは、そういう世界なんだ。という、そのことが昔のわたしはよくわかっていなかった。

差別はいけない、と話すときに、自分たちを当たり前のように、するかしないかを判断する側においていることは、よく考えればとても想像力のないことで、するかしないかの側から見える差別なんて一面的なもの、すごく楽観的なもの、だと思う。なぜなら差別が「差別」の顔をして現れるのは、「自分自身が差別される瞬間」に決まっているから。自分を差別するかしないかが、他人に不当に決められてしまう、わたしが差別するかしないかを決めれば世界は少しはよくなるはず、という考えも、「誰かが差別されるかどうか」を自分が決めるという歪な状態を、どこかで見逃す行為かもしれない。差別されることについてどうするって怒るしかなくて、いい加減にしろよ!!って言うしかない悲しみしかなくて、そのときに「わたしは差別をしない」なんて、「当たり前だ!!!」しかなくて(でもこれだって別に簡単なことではない)、でもそれ以外にできることってもうマジで「マジかよ」って言うような少なさで、「差別される自分」という像を救える自分がどこにもいない、だから虚しくなる、虚しくなってちゃいけないんですけど、虚しい、虚しいっす。世界頼むよ、ほんとになんでそんなもんがあるの。強くなりたいわけでも、正しくなりたいわけでもないんだよ、自分じゃなくて世界に変わってほしいって思っている。