朝マック詩人

‪最近出たBRUTUS「最高の朝食」特集にエッセイを書いているんです。「最高とか言われても私に書けるのは朝マックぐらいなんですけど…」って言ったら「むしろそういうのがいいんです!」って言われたので朝マックについて書きました。そういうのがいいんや!と面白かったです。朝という爽やかビームを如何に破壊するかで私の一日は始まるのです…。(詳しくは本誌を読んでください)(以下は今思ったことです)
   
食べ物に最高ってものがあるのかはわからない。ただ私は朝マックというものしか受け付けない朝があり、その気持ちは絶対に守ってやりたいと思っている。食べ物をおいしいと思うかどうか、はある程度慣れ親しんでしまうと、少しだけ開いた扉は開けずにはおれない、みたいなそういう「すこしのずれのような気持ち悪さを整えたい」という欲求が鍵となると思うんですよね。食べたい時に食べるものほど、美味しいものはない。本当は、食べてどんな味がするかより、「食べたい」と猛烈に思い出された時に、食べ物という体験は色鮮やかなものになるのです。なぜ、私はこんな話で真剣なんだろう。思い出される食べ物は幸せであり、思い出されるときに味が完全に口の中に再現され、それでも求められるとき、体験としてはすべて完結しているのだが、お決まりの捨て台詞のように実食が求められる。わたしはジャンクフードが好きだが、それはこの「異様に食べたくなる」という部分が強烈であるからだと思う。実食の瞬間が、「わかりきっている」のに、パワフルで、「いつもと同じ」なのに、最新情報にアップデートされる感触があるからだ。非現実的なはずのスパイスやしょっぱさが、なぜか何よりも生々しいものとして迫ってくる。ジャンク!ジャンク!ジャンク!丁寧に、生きているつもりだ。それはこのような感性の反応に忠実でいるということで、わたしは食べたいと思ったとき朝マックを食べる自分が、どんなときより詩人だと思うね。通常はソーセージエッグマフィンがいいんですけど、ストレスが限界に達するとマックグリドルになる。このエッセイはソーセージエッグマフィンについてです。(マックグリドルは前別の本で書いた)よかったら読んでみてください。