きみ推しという詩

ユリイカ「女オタクの現在」特集に詩を寄せています。
オタク、それから推しという存在について考えたときまず思ったのは「推しのいる幸福」であり、オタクという存在に投げかけられる「幸せになれない」という外部からの「余計なお世話」な視線でした。「私が幸福かどうかをお前が決めるな」という返答は、女オタクにおいてもはや当たり前のものとなっているけれど、でもそれでも(「オタクだから不幸」はくだらない視点だとしても)、単純に人として肉体を持つこと、現在に生きることに起因する、理由のない不安定さや孤独が、自分自身の日々に食い込み、推しという存在や、オタク趣味にそれらの痛みが侵食していく感覚を持ちうる人もいるだろうと感じました。(もちろんオタクでない人にもそういうことはあるし、人は自分が愛する物を通じて、自らの孤独を見てしまうと感じます)そのとき、オタクは完全なる幸福であるというより、オタクというのは「生きる」ことそのもので、そしてだからそこにある個人としての不安定さを無視できない、オタクを外部から否定するための紋切り型の「不幸」ではなくて、ある1人の人間の、個人としての痛みが、推すという行為に影響を与えてしまう瞬間を、詩にできたらと思いました。
そういう詩がこの特集においてどう見えるのかは不安でもあります。個人の痛みとしての詩を書くしかないと感じ、それを書きましたが、この特集の中にあることで、オタクというものをひとつの固まった属性のように捉え、その属性を代表して詩を書いた(ということは私には不可能だと感じるのですが)ようにみられる可能性もあり、そこを打破できる詩になったのだろうか?もうここは完全に私の詩人としての質の問題だと思いますが、とても考えます。オタクでなくても、属性を踏まえた上で個人としての言葉を書く限りこの問題は付き纏いますし、詩を書くことで一つずつでもそこを乗り越えていけたらなと感じます。書けて楽しかったですがプレッシャーもかなりありました。精進しなくては……。しかしそう思えたのだから、私としては受けてよかったと思うのです。読んでみてもらえると嬉しいです。