書かれる恋

『一等星の詩』という本で保坂和志さんが書いてくださったサザンの歌詞についての文章。恋をすることと、歌詞の中にある恋愛について書かれていて、「自分の恋愛よりずっとたくさん歌の歌詞を経験した気がする」という一文がある。歌詞の中にある「恋」こそが、自分の中に「自分自身の恋」として残っていく可能性。歌詞の中の恋の経験が自分の恋愛に重なり、時には補うこともあり、もはや現実だったのか歌詞だったのか、区別がつかなくなるような恋愛のこと。
 わたしがそれを読んで最初に思い出したのは、百人一首における恋の歌だった。お題として恋があげられ詠まれることもあれば、自らの気持ちを相手にぶつけるために詠まれた恋の歌もある。それらはどちらも作品として残るし、虚構としての恋の歌と、もはや相手への干渉として生まれた恋の歌がこのように並列にあるのは不思議だと感じていた。簡単に言うと、後者はそれを耐えられたのだろうか、ということが気になった。歌のために虚構として生まれた「恋」が「わあ、キュンとしますね」って鑑賞されるのと、今にも恋によって死にそうな人が、相手にすがるような思いで書いた恋の歌が、鑑賞者にとっては同じ位置にある。しかしこのことに異物感があるのはわたしが「現代の人間」だからなんだろうなとも薄々わかってはいたんだ。
 恋愛で死にそうになることはあるけれどでもそのことが、今ほど大ごとではなかったのではないかと感じる。大ごと、ではあったのかもしれないが、生活と地続きの大ごと、だったのではないか。恋愛というものが日常の一部として染みついていて、そりゃ人なんだから恋で死ぬこともありますよ、ぐらいの感覚であったのかもしれない。他者の「恋」という出来事を、イベントとして鑑賞すること、自らの恋愛とそれを重ねて、知っていたり知らなかったりするそのシチュエーションに何かを思うことはそんなになく、恋という芯の部分だけを、当時の人は見ていたのではないか。誰がどうしたから生まれた歌だということより、そこに書かれた恋心だけが、ぶつかってくる。和歌における恋はそうして鑑賞され、だからそれが事実だろうがフィクションだろうが、あまり関係がなかったのかもしれない。恋愛というもの自体が特別で、非日常的で、どこかそれらに幻を見、その幻を追うように恋をする今の人は昔の人からしたら、みんな平等に恋に「重い」んでないか、なんてことを考えていた。
  
 このことを保坂さんに編集の熊谷さんを通じてメールしたら、ちょうど群像に掲載される連載「鉄の胡蝶は記憶の夢の歳月は彫るか」に、作品という場における「恋」について書かれたと伺った。この文章はまさにその連載を読んだからこそ、書かねばならないと思って書き始めたものだったりする。
  
(そのことに触れる前に同時期に読んだ現代詩手帖9月号における、豊崎由美さんと広瀬大志さんの対談についても触れておきたいのです。この対談で、最近の現代詩から恋愛詩が減ってきているという話があった。それは詩を書く人間の年齢がだいぶ、上がってきたからじゃないか、という仮説が語られていて、私はその中で今恋愛を書く詩人として名前が上がっていて、かつ、私の詩は恋愛をテーマとして読まれる詩がとても多いけれど、私の詩における恋愛は、その内側から恋愛を描くというよりも俯瞰的に離れて描いているものだと、過去の恋愛詩と比較しながら分析されていた(ちなみに恋愛に限らずわたしはわたしの詩に距離を置いているという指摘がこの対談連載には以前もあって、これはその流れだと思われる)。内側ではない、というのはまさしくそうで、ただ、俯瞰、という言葉が本当に合うのかはわからないなあと思う。私は具体的な恋愛を外からイメージしてそれをテーマに詩を書いているわけではなく、そもそも自分が書くのは「きみ」「ぼく」や「私」「きみ」という言葉であり、その言葉は自動的に関係性を連れてくるから、それ以上でも以下でもないのだった。たとえば「きみ」という言葉は不思議で、「きみ」と呼ばれるその人より、その人を見ている「ぼく」「わたし」の意識のほうが強く出ていると感じている。「ぼく/わたしが見つめる人」という定義以上に、求められる属性などないし、年齢とか性別とか、そして恋人であるのかどうかさえ関係なく、言葉はこの定義だけで貫いていけるから美しいのだと思う。(これはこの対談を読むより前に一度Twitterで書いたものでもあるのだけれど、今回のこともやはり同じ話だと思った。))
  
  
保坂和志さんの「鉄の胡蝶は記憶の夢の歳月は彫るか」第25回(群像9月号)にこのような記載がある。

「恋をしない年齢になってもそれを人は書きつづける、それどころかまだそれを知らなくても恋を人は書くことができる、恋を知らない子どもが書いた詩でさえも恋をする心の真ん中を刺し貫くことができる、恋とは恋だと思っているものではない心の何かなのだ」

   
 百人一首における恋の感覚というのは、(描かれているものは重く苦しいものも多いというのに)、とても軽やかで、恋を歌にするという行為そのものが、恋に対して非常にフラットな感覚を持っていたことを感じさせる。以前別のところで和歌についての原稿を書いた時、恋というのは当時の人にとって、「自らの心にひそかに生まれて、意中の相手にだけさらけ出す」ようなものではなく、自分と他者の間に漂うものであり、人がいれば恋があって当たり前と捉える平安の人々にとって、恋心は妖のように京に満ちているものであったのかもしれない、と書いた(字数の関係で消してしまったかもしれない)。実はこの感覚は私たちにも残っていて、けれど、自らの恋や近しい人の恋に、物事が振り回され続けると次第に余裕がなくなって、恋そのものを軽く受け止めていられなくなる。恋そのものが軽くても、自分が恋をするという出来事をドラマのように重く感じて、まるで一つの事件のように受け止め始めてしまうんじゃないか。恋愛というものが特別に見えるのはその物語的な部分であり、恋という感覚そのものはやはり軽いのかもしれない。軽いからこそ、恋愛というものを知らなくても、忘れてしまっても、恋愛の歌に満たされるものがある。恋が飛び石のように自分と縁もゆかりもない他者の感覚をつなげる役割を担う。それは単純に自分に起きた恋の出来事に近い歌にシンパシーを感じるだけでなく、恋という芯にだけある概念のようなそれが、フックになって、知らない恋や、忘れた恋にさえ、自分を近づけてくれるのだ。
   
 恋愛詩がその年齢によって書かれなくなる、というのは私にはよく分からなくて、私は恋というものが、出来事としての恋とはまた違うところでずっと存在していると感じるし、「きみ」という言葉を書く限り、わたしはそれが誰かにとっての「恋の詩」になり得るだろうと感じている(わたしは「恋の詩だ」と決めて書くわけではないのだけど、読む人は読むことでそれを決めているように感じるし、それはとても重要なことに思う)、それにわたしは、友達がいないしひととあんまりしゃべらないし、語りかけることが滅多にないので、じつは「きみ」でもなんでも、他者という存在を感じる言葉を書くとき、それだけで心が、風の吹いた時みたいにざわめいて、すっと何かが変わるのだ。それは恋愛でもなんでもないし、わたしは確かに「きみ」とも「ぼく」とも「わたし」とも遠いところにいると自分のことを捉えているので、その人たちを知ることができないのだけれど、「きみ」と書いたときのこのざわめきがあるなら、「きみ」と書き続けられるだろうと感じる。これはそれだけの話で、恋愛かどうかはわたしにはよく分からないのだった。
   
   
保坂さんの「鉄の胡蝶は記憶の夢の歳月は彫るか」の群像9月号の回には以下のような言葉もあった。

「心は恋しさを向かわせる対象をいつも求めている。
 心は花の美しさを見たり空の青さに感動したりするときにそれを共有する相手を求めている、声に出さなくて心の中で語りかけるだけでもとにかく語りかける相手が心にいなければ気持ちをあらわす言葉は言葉にならない、言葉は記号でなく声で音で歌なのだ、抑揚があってテンポがある。」

  
 声で生まれることを前提とした言葉たちはつねにそれだけで他者を求めていて、それらをそのま書くことができればそれは人の恋心にも自然とつながってくるのかもしれない。恋愛というものが事件や人生の転換のように捉えられる間、恋愛は独立した関係性のように見えるけれど、本当は「言葉を言葉として発する」というそれだけの行為と地続きにあり、そしてもしかしたら恋愛のその果てにあるのもただ「言葉を言葉として発する」であるのかもしれない。言葉を書くことはどこかで恋愛やそれ以外の人の関係性を、地平線のようなところ、自己の中にある「他者という前提」にまで引きずり戻すことに近いようにも思う。たとえ地上に誰もいなくても、他者を前提とした「わたし」がいる。わたしにはそれぐらいが丁度いい、というだけなのかもしれないけれど……。(私は話すのが苦手だから)
   
 和歌はその歌の周囲にこそドラマがあって、例えばその歌を誰々に送るとか、むしろ送らない、とか。作品がコミュニケーションの中に配置されているからこそ、コミュニケーションから切り離されたところで残ることができた。恋をドラマにしていた要素が、作品からすっかり切り離されてしまった。だから余計に今、和歌で恋の身軽さを感じている。作品にするという行為が、恋の身軽さと、個人の感情の重さをうまく分けていたのかもしれない。豊崎さんと広瀬さんの対談にあった「俯瞰」という指摘が言おうとしていたものはわたしの性質ではなくて、作品という枠組みの性質ではないかと思ってしまう。それはわたしがわたしであるからかもしれないけれど……。(だとすれば、やはり私の性質なんだろう。)
   
 個人の出来事として恋をどうしても重く受け止めてしまう、というのは人の当たり前の反応で、しかしそれだけではないからこそ、恋の歌が、わかるところもわからないところも染み渡って、むしろ心地よく感じたりもするのかもしれない。作品の中にある恋愛に「面白さ」みたいなものをかんじるとき、冷静さとか俯瞰とか、そういうよそよそしいものではなく、もっと芯をくすぐられたような感覚がある。それは「恋について書く」という行為にもつながっていて、正確に辿るとそれはもはや恋ではなくなってくる。恋なんだけれど。多分、そういうことなんだと思う。
   
 保坂さんの「鉄の胡蝶は記憶の夢の歳月は彫るか」第25回(群像9月号)を読んでいて、そんなことを繰り返し考えて考えて、考えきれなくなって、ここに書きました。



補足
『一等星の詩』とは福岡での最果タヒ展にて作らせていただいた書籍のことです。様々な人にとって「詩」を集めた書籍です。展示会場で買うことができます。また、9/27まで以下サイトで通販できます。
https://shop.eplus.jp/saihatetahi/all/product-2823/