なぜ日本語が存在するのかについて突然アイスを食べていたら言い出した。

正直性とか生とかいまだにテーマにする気が起きない。なんでこんなに人が固執するのかもわからない。たしかにうちら生きとるけどさぁ、と毎度毎度いろいろ見たり読んだりするたびに思う。なんでそんなに人間は人間の視点が好きなんやろうね。ようわからんわ。
人を主人公にすることにも妙な違和感があるんよ。でもどうしようもないっていうか、人じゃなければ動物ならいいのかとかそういうことでもなくて、なんで紙面上でもこの世を投影しなきゃいけないのかがわからんのだから。命とかもうそういう概念からしてダメだ。なんだろうねどうしたらいいか。
とか考えてたら基礎がぐらつくよね。なんのためにかくん?って楽しかったらえーんちゃう?ってなる。もうそれしかないってことに気づく。だってこの世の投影を拒否したら最終的に残るのは自分の感覚で、それだけが「書く」って行為と同列なんだから。たとえばこの世とか存在とか全てがひきはがされても、私はそこで「醒めた」と思うわけで、私と言う糸だけはつながりつづけているんだから、やっぱり私の感覚だけが大事じゃないかと思う。他人とかそういう影響をすべて無視して、人間と言うアイデンティティーも無視してのこった、快・不快とかそのあたりの勘。それだけがすべてになる。
んでこういうことをちゃんと話さずに「勘が頼りです」なんていうと、何も考えていない典型的な若者としてあしらわれるのだった。なんでだ? なんでだよ!!
   
ちっさなころからそんなこと思ってるんだけど小さいころは「おかしい人だと思われるからやめなさい」ってママーンにいわれていた。おかしいのだろうか。最近は作品にしたら話してもいいかなと思っていて、そのうちいいや別にと思って、文章の場合は解禁している。たぶん話すと目の前に真顔があるから変だと思われるんでしょう。文章なら冗談のつもりかもとかかってに補強してくれるから大丈夫でしょう。フォフォフォ怪盗カニコロッケだ。でもときどき襲われるわたしの感覚についてだれも同意せんから書かないの。してくれても的外れなの。
   
  
   *
  
頭のかさぶたがとれそうでとれていないかんじがする。とれかけているだけでも十分だとおもうけど、でもやっぱりとれたほうがいいんじゃないかとおもう。とれてしまえばでも後には引けないなぁ。そうしたらどうしようか。学校と言う枠の中にはまったあいだはそんなことしたら自滅するんじゃないかしらイナバの物置。
   
あれま、当方が悪かったですか、それは気づかなくてすみませんでしたねぇ。と珠美さん。珠美さん、京都人でしょう。え、違いますよ。あ、ほんとぅにぃ。本当に。
   
話変わりますが、どうしても書きたい文体の文章と、どうしても書きたい物語の文章があって、それぞれにうがうが言っています。理想としてはそれぞれにぴったりな物語とぴったりな文体がおぎなわれてほしいのだけれど、なぜか別々のまま足りないまま倒れています。だめじゃないかしら。どうしたらいいのかしら。突破口はあなたの口かしら。
一緒にしちゃえばいいんじゃないとか独り言を言って、ありえねぇよ、と普通に怒った。
 
  
はぁ。まいどまいど。あほなことばっかり書いてますなぁ。