祖父江慎さんのこと

 祖父江慎さんは私にとって憧れの人です。お仕事ができる日が来るとは、ずっと、思ってもいませんでした。


 この詩集『恋人たちはせーので光る』は祖父江さんのデザインで、表紙に詩「超絶っ子」を選んで入れてくださっています。本の刊行は2019年ですが、何作か2009〜2011くらいの作品が収録されており、「超絶っ子」もそのうちの一篇でした。
 この、古い作品群は、私が書いた当時、その出来を判断しきれなくて、本に収録することができなかったもの。そして、10年ほど経って、やっと「今の私にはきっと書けないもの」として鮮烈に見えてきていたものです。私は作品を作る時、いつだって「今の私にしか書けないもの」を書くべきだと思っています。そしてそうやって書いた作品のことを、時が経って、本当の意味で「私の作品」と実感できなくなっても、それらの存在を安易に否定してはならないし、遠い過去になってこそ、それらを「私の作品」と思えなくなってからこそ、作品に反射する光を感知できる書き手でなければ、どんどん全てが鈍くなってしまうとも思っています。たぶん、私は、私の作品を、「私が書いた」というレイヤーを外して冷静に、そして緻密に見つめていたいのです。だからこそ、「今の私にしか書けないもの」を書いていたいのだろうな。それを続ければいつまでも、私は私が残す作品群に冷静であり続けられるから。(本当にできてるかはわからないのだけど。)
   
 だから、この詩集を編むとき、昔の私が拾い上げられなかった古い作品に惹かれ、収録したいと思えたことが私はとても嬉しかった。そして特に「超絶っ子」は、書いたころと詩集を編むころでは印象が全く違っていて、私にとって「今の私が見つけた」と思える象徴的な作品でした。そっと、詩集の原稿にこの作品を入れられたことが、書き手として静かに嬉しかったのです。けれど、その話を、特に祖父江さんにはしてなかったから。いただいた表紙デザインを見たとき、私にとって大切な「超絶っ子」が表紙に組み込まれていて、本当に、本当に驚いたのです。
  
 私は祖父江さんの装丁が好きです。もうだいぶ昔、自分がこんなふうにたくさん本を出させてもらえるようになるとは思ってなかった頃、なんて素敵な佇まいの本だろう!と本屋さんで装丁に惹かれて一冊の本を手に取りました。それが祖父江さんによる装丁で、私にとって装丁に関心を持ったきっかけでした。その頃の私は、祖父江さんとお仕事ができるなんて想像もしていなかったし、そして、自分にとって大切な詩に、祖父江さんがそっと気づいてくださっている、そんな一瞬が訪れるとももちろん思っていませんでした。
  
 これは私の大切な思い出です。お仕事をできたこともだけど、作り手として憧れている人に、説明しきれない何かが通じた、と感じ取れたことは、本当に幸せな出来事でした。
  
 祖父江さん、ありがとうございます。本でも、展示でも、お世話になりました。そしてずっと、祖父江さんの装丁を拝見するのが私はただ楽しみでした。

言葉が声になる、その直前の温度

 前橋文学館「最果タヒ展」での青柳いづみさんの『恋と誤解された夕焼け』の朗読会のことを、ちくまのエッセイに書きたくて、やっとそれが書き終わったので、ここにも書きます。
  
 私は「つらら」という詩を『恋と誤解された夕焼け』の中で特別に思っていて、それを読んでもらえたのが幸せだった。読んでもらえたというより、一人の透き通った人間の存在みたいな形になった詩を聞くことができて幸せだった。私にとって詩は、声の手前のもので、言葉よりは肉体に近いものなんだけど(脳の中の肉声、みたいなもの?)、青柳さんの声ってそんな声に聞こえる。だから、「つらら」を読んでくださるのを聞いてみたかったのです。
  
 それから「死なば諸共とろろ」。私は詩を書いているときの私に、書かない時間の私は絶対に勝てない、と思っているところがあり、そのことをいつもは忘れているのだけど。青柳さんの朗読で、私はいつも、詩を書いた瞬間の私に再会する。詩を書いた瞬間の私に、今の私が心臓を奪われるような感覚になる。私は、あの時に書こうとしたことの全てを思い出せるだろうか、それはわからないけれど、こうやって、思い出せなくても、再会する瞬間があって、それは贅沢なことだと思う。特に「死なば諸共とろろ」は、書いていた時にだけ見えていた光のようなものを、聞いていて確かに思い出せて、なんだか、私より、青柳さんの方が私だった。
  
「彗星の詩」の「きみを微塵も奪わない私の手を。どうか取って。」という一文を私はとても大切に思っていて、その分(なのか、それなのに、なのか、)それはいつも書き途中のように心の中で微かに震えていたのだけど、それを青柳さんの朗読で聴いた時、やっと書き終えた感覚になった。
言葉が声になる瞬間って、私からすると大きな夢だな、と改めて思った。
  
青柳いづみさん、ありがとうございました!
お越しくださった方もありがとうございます!
  
前橋文学館の展示は9/21までです。水曜はお休みです。

萩原朔太郎賞授賞式で話したこと

萩原朔太郎賞授賞式で話したこと。(持っていった原稿。この通りには話せてない。でもおおよそはこうだった!)



この度はありがとうございます。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」という有名な、「月に吠える」の序文が私はとても好きです。感情というものは極めて単純であって、同時に極めて複雑だという言葉も好きです。インターネット、SNSの存在によって、話す言葉のほかに、書く言葉が人にとってとても身近なものになりました。相手がいないところ、誰か特定の人に宛てた言葉ではないものが、自分の心から溢れて、それが「私」という存在の表れになることを、昔より今は多くの人が知っていると思います。そのことを私は美しいと思うし、同時に、昔よりもずっと、自分の感情というものが少しも表しきれないもので、胸の中にはあっても、その外側にはうまく出てこない、言葉にするたびに何かが削れるような経験をする人も増えていると感じます。昔からそんなことはあったはずだけど書き言葉として形になるからこそ、余計にそのもどかしさを意識する人が増えていると思います。そうして、そこで、その人の詩が息づくのではないかと思います。その人が書く詩、その人が読む詩。自分そのものが書かれていると思う言葉でなくても、何かに向けて精一杯手を伸ばし、それこそ神経を掴もうとした言葉が、その人のもどかしさを支えてくれる。それはその人の中にある「詩」の芽生えと思います。

私には、私に見えている星のような光を信じ抜いて、それにひたむきになる瞬間の言葉を書くことしかできないけれど、それが私にとっては詩で、ときにそれが誰かにとっても詩であることを、知ることもできました。それはとても幸福なことで、私は書いた瞬間、そして、読んでくれた人の心に「詩」が芽生えた瞬間を、これからも大切にしていきたいです。
ありがとうございました。

狂わす人、狂わされる人

 月島が好きでそのことは以前にすばる2022年4月号で書いて、それこそ「見届けたい」と書いたから、最終回を読んだ後、月島について改めて書こうと思いました。また、ゴールデンカムイの作品そのものについては以下の記事で書きましたのでぜひそちらもよろしくお願いします。
連載 第八回:殺人÷罪悪感 | BE AT TOKYO - BE AT TOKYO


 以下はネタバレもあると思うので気をつけて読んでいただければと思います。
 月島は生きる理由を一度鶴見中尉に奪われている。いご草ちゃんが生きているのかどうかわからなくなってしまった時点で、彼は生きる気力を失い、そして死に時さえも逃してしまったことに気づいた。だから月島は自分が生き残ってしまった理由を後付けでも見つけようと、鶴見を「何かとんでもないことを成し遂げられるのはああいう人でしょう?」と追いかけ、忠誠を誓い、鶴見のために働いた。物語の後半で鶴見が月島に、本心から仲間の弔いのために動いているのだ、大きな野心のために動いているのだと信じさせてやったことは、確かに(月島が見ていると知っていてやったのだから)「劇場」的で恐ろしいが、それでもあの瞬間月島は確かに救われたし、それはたとえ鶴見が打算的にやったことであったとしても、月島に確かな未来を与える鶴見なりの誠実な「劇場」だったとも思う。私は、人は何がなんでも生きたいと願うべきだとかそんなことは思わないけれど。月島はどうしても死にたがっているようには思えなかった。それは、月島が一度生きることを愛情でもって肯定されたことのある人であり、その相手は決して月島を裏切らず、きっと今も月島が生きていたら、どこかで幸せに暮らしていたらいいなとふと思っているだろうから。鶴見は実際にいご草ちゃんが生きていることを知っていたし、でも、それを月島に心から信じさせるのは多分都合が悪かった。月島が完全に「自分の未来」を取り戻してしまったら、自分の兵隊としては不確かなものになってしまうから。だから、彼は月島からその希望を奪ったけれど、でもその責任を取るように彼が聞き耳を立てている中で、自分の野心を語った。月島は有用な部下だと思うけれど、彼に鶴見がここまでこだわっているのは、ただ有能だからというだけでなく、月島に対して鶴見は責任があるからだと思う。だから、鶴見は自分を信じることは間違っていないと月島に確信を持たせた、希望を持たせた。鯉登は月島を解放してほしいと願い出たけれど、鶴見ができる「解放」はあれしかないのではないかと思う。鶴見には月島は必要だし、そして鶴見が月島に与えられる希望は、自分の兵隊として生きたことを「選んでよかった」と月島に心から思わせることしかない。彼に見せていた夢や幻を消してしまうことでは絶対にない。鶴見はそれこそ、戦地で将校として生きるしかない人なのだ。
 鶴見は将校としてしか、月島を救ってやれない。そうして教会で語られた鶴見の野心は、鶴見の本心とそこまで相違はなかったとも思う。それもまた鶴見が、もはや仲間たちの魂や希望を背中から下ろして一人の人間として生きることは絶対にできない人生を生きているからだと思います。鶴見は、心から家族の死を悼みたかっただろう。復讐をしたかっただろう。個人的な願いが、仲間の弔いより下回るものでは決してなく、それは本当に大きな彼の願いだっただろう。でも、彼にそれだけを願う自由はもうなかったのだと思う。仲間たちの希望を作り替え、強き兵士として生まれ変わらせ、自分の元で死なせていったからこそ、彼は責任を背負い、それを果たしてきた人だった。だから、最後に家族の骨を選ばなかった。それはどちらが大事だったからとかではなく、将校としてその願いのために生きてきた彼は、そこで死んでいった仲間たちをもはや裏切ることができなかった。選ぶ自由をすでに持たなかったのだ。鶴見は、将校として以外の自分を捨てていくしかなかった人だ。そうやって生きることで願いを叶えようとし、そしてその結果、自分の願いを最優先にすることができなくなった。鶴見の選択が何よりも一番私には苦しくて悲しかったです。やっと全てがわかったような気がしたし、それでも、鶴見が希望を見せ、(月島の中で)理想的な将校のまま死んでしまったからこそ、月島の中にあった希望は残り続け、そして次の未来に向かうことを月島は自分に許すことができたように思うのです。


すばる4月号
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Be At Tokyoに書いたゴールデンカムイについてのエッセイ(WEBで読めます)
連載 第八回:殺人÷罪悪感 | BE AT TOKYO - BE AT TOKYO

この詩はどの本に収録されてますか?への答え

以下は、過去詩集の収録作品タイトルの一部です。たまに「この作品が入っている詩集がわからない」と言われることがあるので、よく聞かれるタイトルや、よくネットで引用されているタイトルを記載しました。ただ私は同じタイトルで複数の詩を書くこともあるので「タイトルは同じだけど探してた詩じゃない!」みたいなことが起きていたらすみません。ちなみに、本にはここに記載していない詩も収録されています。第一詩集以外はだいたい40-44編ぐらいの作品数です。(書き下ろしの詩もありますし、構成も本ではじめて楽しんでもらえたほうがいいかなとは思うので、全部は載せていないです。もしここに載ってなくて探している詩があれば聞いてください。)
   
   
・グッドモーニング
夏のくだもの
会話切断ノート
術後
苦行
小牛と朝を
暴走車を追いすぎて、
博愛主義者
死なない
(文庫版のみ)朝に迎え撃つ
(文庫版のみ)四月はリルケ
(文庫版のみ)愛ちゃん
(文庫版のみ)ひとひと
(文庫版のみ)花狂(短歌)
他23編ほど(文庫版の場合)
   
   
・空が分裂する
へらない
14才の化学進化説
器械
みじめな人たちのこころ
誕生日
やあ!
おめでとうさようなら
アンチヒューマン
医学
死後
50億
移住者
花火、逝く
他28編ほど
   
   
・死んでしまう系のぼくらに
望遠鏡の詩
夢やうつつ
きみはかわいい
2013年生まれ
夜、山茶花梅雨
恋文
文庫の詩
お絵かき
ライブハウスの詩
70億の心臓
ぼくの装置
香水の詩
花束の詩
マスクの詩
絆未満の関係性について
他29編ほど
   
   
夜空はいつでも最高密度の青色だ
黒色の詩
オリオン座の詩
うさぎ移民
水野しずの詩
貝殻の詩
プリズムの詩
花と高熱
彫刻刀の詩
うさこ、戦う

にほんご

4月の詩
ひとの詩
他29編ほど
   
   
・愛の縫い目はここ
スクールゾーン
ビニール傘の詩
ワンシーン
白い花
夢の住人
ピンホールカメラの詩
真珠の詩
映画館
ふれた永遠
アンチ・アンチバレンタイン
ガラスの詩
文学
BABY TIME

他29編ほど
   
   
・天国と、とてつもない暇
自分にご褒美
冬の濃霧

森の詩
生存戦略
NO NAME
かるたの詩

クリスマスの詩
旬の桃
白の残滓
夏の深呼吸
星か獣
他30編ほど
   
   
・恋人たちはせーので光る
果物ナイフの詩
座礁船の詩
恋人たち

9月
8月(夏の供養はナンバーガール
2月の朝の詩
通行人の森
残雪の詩
誠実に女の子
バレンタインの詩
0時の水
関節の詩
日傘の詩
他29編ほど
   
   
・夜景座生まれ
約束
傷痕
母国語
21歳
ときめき狂
墓標
彗星
激愛
loved
氷の詩
ヨーグルトの詩
静寂の詩
ブレーカーの詩
経営方針2019
他29編ほど
   
   

朝マックという名の銃弾

(某誌に依頼されて書いたのですが、いろんな事務手続きですれちがいが起きて、掲載される場所をうしなった原稿をここに載せます/こんな原稿を載せてくれるのか、みたいな文言がありますが、原稿を渡す前に事故で掲載がなくなったのです)

   
   
 他人がガッツリしたご飯を食べているのを見ると、「元気やなあ」と羨ましくなるぐらいには私も食欲が落ちており、とにかく体が楽なものが食べたい、などと思うが一方で、疲れ果ててしまうと、このとどめをおいしいものに刺してほしい!と思うのだ。この気持ち、あまり理解されないのだが、徹夜明けだとかボロボロになった日の、朝マックがめちゃくちゃ好きなのである。
 胃はもう枯れ果てた木の実のようになっていて、食べるという行為を忘れているようだった。水だけが美味しく、水だけが流れていく大地のように横たわって、その中で「あ〜これは朝マック」と思う。朝になっても自分が疲れていることに、もう慣れている、全然目覚めはスッキリしない、そんなものは子供だけのものだと知った、それから、私は大人には朝マックがある、と思うようになった。
 私の朝マックのルールは一つ、食べたいと思ったら絶対に食べ、それ以外の時は絶対に食べない。それはおいしいかどうかという意味で食べるわけではないからだと思う。疲れるのだ、おいしさに疲れている。でもいいのだ、疲れたいのだ、もう食事に元気をもらうとかいうのは「嘘やろ」って思うようになっている。
   
 こんな文章を、ハンバーガー特集に載せてくれるのか、私は今不安なのですが、私はこれでもハンバーガーが好きです。朝マックは食べたい時は必ず食べますし、それ以外のハンバーガーもチーズが入っているものがとにかく好きです。チェダーのあの色にお腹が空いていたのは10年前ですが、でも今でもあの色は素敵な色だと思います。
 眠って元気を回復とか、おいしいものを食べて元気を回復、とか、お風呂に入って元気を回復、とか、嘘なんだなって思うことが増えました。昔は確かにそうだったかもしれないけど、ずるずる引きずる荷物が増えて、いつまでも疲れは残り続けます。回復なんてしないし、やり過ごす、というだけです。寝てなんとなく少しだけマシな気がしてやり過ごす、おいしいものをたべて、なんとなくマシな気がしてやり過ごす、お風呂に入ってさっぱりした気がしてやり過ごす、でも疲れている。疲れているんです、ずっと。そのことが諦められなくて、体に合わせたものだけを選択して、でも回復しなくて、そのことに気づかないふりをしている。だんだん回復しないことより、回復しないのにいつまでも望みを持ち続ける自分にうんざりしてくるのです。
 これが、私が朝マックを愛する理由であると思います。焼肉が辛いという大人の気持ちが昔まったくわからなかったのですが、今になってよくわかります。しかし、「だから食べない」という大人の選択はまだわかりません。逃げても回復するわけがなく、回復する手立てはなく、ならばボコボコにやられた方がいいのではないか。元気が出ないまま低空飛行をするぐらいなら一瞬の「おいしい!」に身を焦がし、墜落してはどうか。なんてことを考えられる私はまだマシなのかもしれない、そのうち万年墜落した健康状態となるのかもしれない、そうしたら朝マックは卒業だな、と思います。それまではあの弾丸を朝に目一杯浴びて生きたいと思います。
   
   
    

言葉を、言葉が越える。

2020年は、詩集三部作『死んでしまう系のぼくらに(韓国語版タイトル:恋じゃなかったものは星)』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』『愛の縫い目はここ』の韓国語版が発売された年でした。정수윤(チョン・スユン)さん訳で、마음산책(マウムサンチェク)からの刊行です。(死んでしまう系〜だけは、韓国では「死」の言葉の印象が少しコミカルになるとのことで、新たなタイトルを考えてほしいと依頼され「恋じゃなかったものは星」というタイトルをつけました)。この韓国語版に書き下ろしたあとがきの原文を、以下にアップしておきます。



  言葉を、言葉が越える。   最果タヒ

 詩は言葉でありながら、言葉ではないものとして、人の奥底に触れるように思います。言葉にすることができる感情や思考などほんのわずかで、多くのものが言葉にならないまま、川のように意識の底に流れ続けている。それらは、もしかしたら「わたし」と言えるものですらなく、川はどこかで誰かの川とつながっていくのかもしれない。詩の言葉は、共感や理解から離れたところに存在するけれど、でもだからこそ、そうした川の中へと届く。川に落ちていった葉や花びらが、川の流れを象るようにして、詩もそこにたどり着く。私は日本語の、主語-目的語-動詞、の順番が非常に好きで、韓国語もまたその語順で語られるため、昔から非常に興味のある言語でした。「私はコーヒーを飲む」、「あなたは猫を飼う」、「彼女はきみを愛している」。自分や他人が取る「行動」よりも先に、その「対象」を述べるこの語順は、身体より世界が、優先的に意識されていると感じるのです。そして、これは私には非常に自然なものに思えます。私には、私の体は見えない。私は私の行動を「私」の軸として捉えるべきなのかもしれないが、むしろ自分の視界に映るものや、人にこそ、「私」を見出してしまう。(なぜならその対象にピントを合わせているのは、「私」自身だから。)ひとは、それぞれ全く違う人生を生きて、理解なんて簡単にできるわけがないと思うけれど、それでも混ざり合っている、視界にとらえたその瞬間、すでに関わり合っているのだ、ということに面白さを感じます。この語順は、そうした曖昧な関わりと自我のありかたに、近接していると思うのです。
 違う言語で詩が訳されることは、詩人にとって奇妙な体験です。言葉でしか書けないものを書いているのに、その言葉が変わっていく。けれどそのとき、詩は、底に隠していた本質的な「詩」を露わにするのかもしれない、とも今は思います。それは、言葉でありながら、言葉ではないところに届こうとするのが、詩だから。韓国語となった自分の詩が、今はとても愛おしく思います。