朝マックという名の銃弾

(某誌に依頼されて書いたのですが、いろんな事務手続きですれちがいが起きて、掲載される場所をうしなった原稿をここに載せます/こんな原稿を載せてくれるのか、みたいな文言がありますが、原稿を渡す前に事故で掲載がなくなったのです)

   
   
 他人がガッツリしたご飯を食べているのを見ると、「元気やなあ」と羨ましくなるぐらいには私も食欲が落ちており、とにかく体が楽なものが食べたい、などと思うが一方で、疲れ果ててしまうと、このとどめをおいしいものに刺してほしい!と思うのだ。この気持ち、あまり理解されないのだが、徹夜明けだとかボロボロになった日の、朝マックがめちゃくちゃ好きなのである。
 胃はもう枯れ果てた木の実のようになっていて、食べるという行為を忘れているようだった。水だけが美味しく、水だけが流れていく大地のように横たわって、その中で「あ〜これは朝マック」と思う。朝になっても自分が疲れていることに、もう慣れている、全然目覚めはスッキリしない、そんなものは子供だけのものだと知った、それから、私は大人には朝マックがある、と思うようになった。
 私の朝マックのルールは一つ、食べたいと思ったら絶対に食べ、それ以外の時は絶対に食べない。それはおいしいかどうかという意味で食べるわけではないからだと思う。疲れるのだ、おいしさに疲れている。でもいいのだ、疲れたいのだ、もう食事に元気をもらうとかいうのは「嘘やろ」って思うようになっている。
   
 こんな文章を、ハンバーガー特集に載せてくれるのか、私は今不安なのですが、私はこれでもハンバーガーが好きです。朝マックは食べたい時は必ず食べますし、それ以外のハンバーガーもチーズが入っているものがとにかく好きです。チェダーのあの色にお腹が空いていたのは10年前ですが、でも今でもあの色は素敵な色だと思います。
 眠って元気を回復とか、おいしいものを食べて元気を回復、とか、お風呂に入って元気を回復、とか、嘘なんだなって思うことが増えました。昔は確かにそうだったかもしれないけど、ずるずる引きずる荷物が増えて、いつまでも疲れは残り続けます。回復なんてしないし、やり過ごす、というだけです。寝てなんとなく少しだけマシな気がしてやり過ごす、おいしいものをたべて、なんとなくマシな気がしてやり過ごす、お風呂に入ってさっぱりした気がしてやり過ごす、でも疲れている。疲れているんです、ずっと。そのことが諦められなくて、体に合わせたものだけを選択して、でも回復しなくて、そのことに気づかないふりをしている。だんだん回復しないことより、回復しないのにいつまでも望みを持ち続ける自分にうんざりしてくるのです。
 これが、私が朝マックを愛する理由であると思います。焼肉が辛いという大人の気持ちが昔まったくわからなかったのですが、今になってよくわかります。しかし、「だから食べない」という大人の選択はまだわかりません。逃げても回復するわけがなく、回復する手立てはなく、ならばボコボコにやられた方がいいのではないか。元気が出ないまま低空飛行をするぐらいなら一瞬の「おいしい!」に身を焦がし、墜落してはどうか。なんてことを考えられる私はまだマシなのかもしれない、そのうち万年墜落した健康状態となるのかもしれない、そうしたら朝マックは卒業だな、と思います。それまではあの弾丸を朝に目一杯浴びて生きたいと思います。