言葉を、言葉が越える。

2020年は、詩集三部作『死んでしまう系のぼくらに(韓国語版タイトル:恋じゃなかったものは星)』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』『愛の縫い目はここ』の韓国語版が発売された年でした。정수윤(チョン・スユン)さん訳で、마음산책(マウムサンチェク)からの刊行です。(死んでしまう系〜だけは、韓国では「死」の言葉の印象が少しコミカルになるとのことで、新たなタイトルを考えてほしいと依頼され「恋じゃなかったものは星」というタイトルをつけました)。この韓国語版に書き下ろしたあとがきの原文を、以下にアップしておきます。



  言葉を、言葉が越える。   最果タヒ

 詩は言葉でありながら、言葉ではないものとして、人の奥底に触れるように思います。言葉にすることができる感情や思考などほんのわずかで、多くのものが言葉にならないまま、川のように意識の底に流れ続けている。それらは、もしかしたら「わたし」と言えるものですらなく、川はどこかで誰かの川とつながっていくのかもしれない。詩の言葉は、共感や理解から離れたところに存在するけれど、でもだからこそ、そうした川の中へと届く。川に落ちていった葉や花びらが、川の流れを象るようにして、詩もそこにたどり着く。私は日本語の、主語-目的語-動詞、の順番が非常に好きで、韓国語もまたその語順で語られるため、昔から非常に興味のある言語でした。「私はコーヒーを飲む」、「あなたは猫を飼う」、「彼女はきみを愛している」。自分や他人が取る「行動」よりも先に、その「対象」を述べるこの語順は、身体より世界が、優先的に意識されていると感じるのです。そして、これは私には非常に自然なものに思えます。私には、私の体は見えない。私は私の行動を「私」の軸として捉えるべきなのかもしれないが、むしろ自分の視界に映るものや、人にこそ、「私」を見出してしまう。(なぜならその対象にピントを合わせているのは、「私」自身だから。)ひとは、それぞれ全く違う人生を生きて、理解なんて簡単にできるわけがないと思うけれど、それでも混ざり合っている、視界にとらえたその瞬間、すでに関わり合っているのだ、ということに面白さを感じます。この語順は、そうした曖昧な関わりと自我のありかたに、近接していると思うのです。
 違う言語で詩が訳されることは、詩人にとって奇妙な体験です。言葉でしか書けないものを書いているのに、その言葉が変わっていく。けれどそのとき、詩は、底に隠していた本質的な「詩」を露わにするのかもしれない、とも今は思います。それは、言葉でありながら、言葉ではないところに届こうとするのが、詩だから。韓国語となった自分の詩が、今はとても愛おしく思います。