十代に共感する奴はみんな嘘つき

青春は誰もが抱く「平凡」だ。それでも愛おしく思えるのは、その時期が特別に見えるのは、美しいことだと思う。大人になれば、本当に同じ言語を使っているのかわからなくなるぐらい、伝わらなさが世界を覆っていて、届けと願ったって、なかなかそれは難しい。それぞれが持つものがあまりにも変わってしまって、共鳴する部分が本当に減ってしまった。青春を生きる間は、どんなに尖った感情もそのまま表していけば、誰かに響くことがあった。分かり合えなさそのものが、共有されていたあの時間。他人に理解されることを期待しなくても、どうしようもなく伝わってしまうのはこの時期に作ったもので、どうしたらいいのかわからなくても、やりたいことが伝わるはずもないことであっても、伝わらなくたっていいんだよと凶暴に思っても、振り回せば、振り切れば、だれかの心が動く時間。その時期に何かを作るということができたのは、私は幸せだったなと思う。
   
人間が生きている限り言葉は脳裏に生まれてしかしそれはほとんど整頓されず、ただだらだらと流れていく。もしかしたらそれは色だったり絵だったりする人もいるのかもしれなくて、でも私はどちらかというと、ぐちゃぐちゃの未熟な言葉が思考を作っている感じだ。文法もおかしいし、並行して別々の言葉が同時に流れることもある。そういうのをそのまま出せたらいいのにな、と思っていて、ずっとそんな感じで書いている。そうするとふと、別の人間になった気がすることもある。
文學界4月号で中編小説「十代に共感する奴はみんな嘘つき」を書いて、それは一人の女の子の日常であり思考であり最強であるというそのことそのものなんだけれど(私にとっては)、なんだかその子の方が現実なんじゃないの?と思ったぐらいに私は、完結させるのがさみしかった。花椿賞の授賞式に出たその夜に、熱にあてられたのか、この小説を書き始めて1週間。できあがったときはもうおわりであることが、その子ともう小説できないのがかなしい、ってかんじだったな。枯れ葉の足音みたいな名前の女の子の数日間。よかったら読んでね。
あ、タイトルの「十代に共感する奴はみんな嘘つき」はすばる2013年9月号に書いたエッセイのタイトルだったりします。あと詩でもイベントのときに使いました。