人間が嫌いだというそういう感覚とは別で、私の要素のほとんどは他人との間に存在するものでしかない、という感覚もある。肉体というのは他者が私を認識するための目印であるし、私が見るもののほとんどは、他者も見ているものだ。この言語もそれと同じ。
読む人に近づくために、できるかぎり一般的な言葉を使って書いているね、と人に言われることもあって、でもそういうことを意識してやっていたことはなかった。そんな面倒なこと考えていたら文章を書くの嫌いになりそうだ。単純に、そもそも私にとって言葉とは、他者の言葉の歴史を刺激するためのスイッチだったという、それだけのこと。私ではなく他者の中に存在しているものだった。だから、他者がよく使っている言葉の方が多くなるのは別に自然なことだと思っている。
それぞれの人の中で、その言葉を使ってきた過去が言葉には蓄積されている気がしている。ある人がある言葉を読むと、それまでのその言葉で浴びてきた感覚が一気に再生される感じ。大きな壁に「死ね」って書かれていたら、すごくぞっとしてしまうことや、「アイスクリーム」って書かれていたらなんだかほんわかしてしまうのは、そういった蓄積のせいだと思っている。私にとって言葉を書くとは、そういう人のその言葉に対する感覚を並べていく、そんな作業だと思っている。言葉はただの文字でも音でもなく、結局はその奥にある個々人の記憶に接続するためのスイッチだ。言葉を書いているのは私でも、読む人と書く人というのがくっきりわかれて一方通行だとしても、結局言葉は私だけのものではなく、書く人だけのものでもなく、限りなく、みんなのものだ、そんな感覚がずっとあった。それは別に最近の意識の話ではなく、小学校の作文の時からそうだった。先生の意識に言葉で接続していく。それは打算だとかそういうことではなく、もっと感覚的なこと。むしろ、言葉単体で、他者という存在を無視して、並べて形を追求していくこと、つきつめれば他人に一切伝わらない造語でものを書いていくようなことのほうが、私にとっては非常に不自然で、意識しないとどうしてもできない。もちろんそっちのほうを突き詰めた人の作品だって好きではあるんだけど。
私は作品を、作者という存在を知るためのヒントとして見られることが本当に好きではなく、正直、作者のプロフィールとかずっと邪魔で仕方なかった。太宰治が自殺したこととか、一緒に死んだのは誰だとか、そういう話なんて知らずに作品が読めたらどんなだけよかったか。まあ、それは私の個人的な好みの問題だと思うんだけれど、どうしてもそういう情報を抜きにしてものを読みたいという気持ちになる。顔写真なんていらないんだよ。中原中也の澄み切った瞳なんてしらないで、詩を読んでみたかった!余計な話なんだ。作者が短命だったか長生きだったか、自殺したか大往生か、女か男か、病気だったか健康だったか。知るか!そんな個人的情報、喫茶店で年に1回以上会う友達以外で知りたくもない。っていうか友達ですらいつのまにか結婚してたりするのに、なんで肉親でもない大昔の小説家の女性遍歴に詳しくならにゃならんのだ。もちろん、作品の背景を知るというそうした読解が必要なんだとは思う。研究という面では怠慢なのだともわかっている。でも私は私という存在のままでその言葉たちを読みたかったし、彼らが書いた時代がいつであろうとも、解釈する私の感性は現代のものだ。そしてそのズレで生まれる奇妙な理解と誤解が、面白いと思っていた。だから私は、せめて私の作品はどこまでも、私ではなく読者と私の間に、あるべきものだと思っている。私は他者の意識のなかに、言葉というものはあると思っているのだから、いつだって私の作品は、最初から他者のみでできあがっている。だから私のことなんて忘れてしまったほうがいい。私のことが好きか嫌いかなんて本当、作品には関係がなく、いつだってその作品を好きかどうか、それだけのこと。