「見えるか、あれが現代だ。」

時代がひとをひとでないものにしてきたのでは、と思うことはあるよね。すごい作品をつくっているそのひとはもちろんすごいんだけど、歴史の一部としてそのひとをみたとき、なにか世界全体の変化のしわ寄せというか、起点がそのひとたちに集中して重なって、そうしてかれらの才能以上のものが降りていくような。人間はやはり時間芸術だな、と思う。誤用だけど。最初からすばらしいひとであっても、時間をのんでいくことでさらにすばらしく、ひとでないなにかになっていくのだ。
そういうことを昔の、時代を作ったといわれている名盤とか聞いていると思います。誰が時代を作ったのか、それとも時代がその人を作ったのか。両方であると思うのです。奇跡というのは時間と世界と人間の重なりによって生まれるのかもしれない。
で、時代というのはその時代の人たちにとって、どれほど遠かったのだろうとも思う。ニュースはあっても、今みたいに世界中の声をひろっていけるわけじゃない。有名になればなるほど時代を俯瞰で見ることができたんだろうな、とはなんとなく思うわけで、つまりその俯瞰が曲に反映されているんだろうか。時代の寵児というのは時代がつくっていくのかもしれないよね。有名になって、すると時代がさらに俯瞰で見えて、だからこそさらに時代を飲み込む歌を作って。でも、いまじゃインターネットがあるし、私たちは本当に簡単に時代を俯瞰できるようになった。時代をヒリヒリ感じている。肌のずっと近くに時代を感じている。みんながそうだから、みんなが最先端に行ける。でも、時代を見ない、ということはもう永遠にできなくなるのかもしれない。
   
私はどうやら「自分が書きたいものを書く」という感覚がないようで、書いている時も、どう書くかより、どう読まれるかという基準しか頭にないことに最近気づきました。という話をすると、「読者をちゃんと意識しているんですね」という話になるのですが、そういう「意識していない状況から意識する状況に移行する」という作業ではないのです。意識しない状況自体がそもそもないのです。要するに、私にとって「書く」という行為自体が、「読まれる」という行為でしかない。書くときはもちろん心地よさがあり、それを愛しているのだけれど、たぶん、その心地よさは、「言葉のでてくる」ところではなく、「書く言葉によって倒せるドミノ」にあるらしいのです。なにいってるかわかんないですよね、わかります。でも、書く人によって、まっしろいなにもない世界に言葉を落とす感覚の人と、人間たちがドミノのように並んでいる世界に言葉を落とす感覚の人というのは、いる気がしている。水面でもいいかもしれない。世界という水面にぽたりと一滴言葉を落とす。私はずっと自分がまっしろのなかに言葉を落とすタイプだと思ってたんだけど、他人の話とか聞いているとどうやら私は違うらしいぞ、と気づいた。水面に言葉を落としている。世界が、全部わかるわけではないけれど、多分非常に近くに感じていて、一つの単語を描くごとにそれがざわっとゆらめく感覚になる。それを、私は「書くことの快楽」と思っているらしい。誰もいない世界で書き続けるということは想像できないのです。発表しない前提でものを書くことも想像できないのです。まっしろがわからない。これはたぶんインターネットも関係していると思う。時代が、誰にだって見えてしまう。だれでも、発信者になれるし、だれかが、かならず見てくれる。それが当然の世界。時代から目をそらすことはできないのだろう。身体が世界とつながっており、孤独を知らないということかもしれない。(それがいいことか悪いことか考えるには私は現状を楽しみすぎているかものはし。)